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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2021-05-06-Thursday 久保田利伸

久保田利伸のコンサートが帯広文化大ホールで開催された。

一昨年のまだコロナのコの字も出ていない時に発売になったチケットを購入した。

久保田利伸は駒澤大学の後輩である。ただし、私が卒業した年に彼が入学しているから入れ替わりなのであるが・・・。

公演日程は2020年03月07日(土)である。土曜の夜の開催ということでとても都合の良い日程であるから楽しみにしていたのであったが・・・。

2月になってから、日本でもコロナ禍が世間を騒がせ始めて、公演日程が07月09日(木)に変更、延期になってしまった。今度は平日の木曜日である。既にスケジュールが入っていたが、仕方がない。スケジュール変更してもらってコンサートに備えたのに・・・。

コロナ禍がなかなか治まらない。

オリンピックも1年延期になった。

事務所に問い合わせたら、次の公演予定は決められない状況だとの説明である。ながらく待っていたのだが・・・。

もうすっかり忘れていた今年の2月になって、05月06日(木)に開催するとの情報が入った。

但し、座席は場所が変更になるという。せっかく2階席の最前列のとても観易い良い場所を取ったのになぁ〜・・・。6日の16:00から、会場に古いチケットを持参して、その場で新しいチケットと交換するという。観づらい変な場所に移動にならなければよいのだが・・・。

16:20頃に会場に入って渡された新しいチケットの座席は2列後方に移動になっていた。

17:00の開場、18:00公演開始であるから、隣の長崎屋で夕食を摂ることにしたのだが、どこの店も休業している。連休中に開けていた代休みたいである。向かいの蕎麦屋も休み、仕方がないから駅北側まで歩いて行ったらここの食堂も休み、結局、会社のすぐ近くまで歩いてカレーライスを食べたのであった。

食べ終わってから文化大ホールに戻った。入場するのに並ぶのも前の人との間隔を開けて並び、体温を測って、手指を消毒、座席番号や連絡先を紙に書いて帰りに提出するようになっている。会場に入ったら、座席はグループ毎に分かれて座る「グループ・ディスタンス」になっている。隣のグループとは1席ずつ空ける様に配置し直したようだ。これは大変な手間であったろう。

人気のある久保田利伸のコンサートなのに、間隔を開けて座らせるから20〜30%くらいは空席になるのかなぁ〜。モッタイナイことである。

万全の対策を取っておかないと、もしも万が一感染者が出たら・・・と云うことなのであろう。

観客は声援を送ってはいけないというアナウンスがあった。久保田利伸のコンサートはファンキーな雰囲気で、客との掛け合いでやるのだから、これまたいつもとは違った雰囲気になってしまうのだろうなぁ〜。

彼の歌はとても上手かった。何より愚痴をこぼさない前向きな姿勢に好感が持てる。帯広での公演は28年ぶりだという。途中で松山千春の歌を歌ったりしてサービス精神も旺盛で楽しいコンサートであった。

やっぱり「ライブ」生は最高である。

東京では、コンサートも無観客でやることが検討されているとのことであるが、バッカじゃないの!

もういい加減に国もオリンピックを諦めて、指定感染症の5類に下げて、インフルエンザと同じ扱いにしたらば良いのにと思う。

このまま、こんな状態を続けていたら、エンターテインメント業界は滅茶苦茶になってしまうぞ!


■2021-05-05-Wednesday 紫竹昭葉さん逝去

紫竹ガーデンの紫竹昭葉(94)さんが4日に亡くなった。

私の父の圭司とは帯広小学校の同級生であった。

夫の勲さんが健在の頃は、仲人さんとして超有名なご夫婦で、私の妹夫婦もお世話になった。

父は私の結婚相手も探してくれと依頼をしていて、私も紫竹さんの帯広競馬場のすぐ東側に在ったご自宅に、見合い相手候補の写真を見に何度か伺ったこともあるが、私は遂に見合いを一度もすることなく、妻と結婚することになったのであった。

妻の方は、紫竹さんからのお誘いで数度のお見合いをしたのであったが、面喰いの妻は結局私と結婚したのであった。

勲さんが亡くなられた後の1992年に、昭葉さんは63歳から庭園造りを始められたのである。父が我が家の畑に生えていたエゾ紫ツツジを百本ほど贈呈し、観光協会の会長としてアドバイスをしたことを、父の死後に何度も紫竹さんから聞かされた。

私は今年63歳になった。ちょうど紫竹さんが庭園造りを始められた年齢である。それなのに私はもう引退することしか考えていないというのに・・・。何ともすごいバイタリティであるなぁ〜

帽子と花柄の洋服がトレードマークで、チャーミングな紫竹さんは「紫竹ガーデン遊華」の「マスコットガール」(おばあちゃんだからグランマかな?)として全国的に有名になった。

私も「観光カリスマ百選」に選ばれたことで、何度か一緒に講演や会議に参加したことがある。そんな講演の時には、いつも昔の童謡などの歌を唄っていらしたことが印象深い。

4日午前10:19分に自宅で庭の手入れをしている時に、大動脈瘤破裂で亡くなられたという。亡くなる直前まで大好きな花の世話をしながら、現役のままでお亡くなりになったのは幸せな最後だったと思う。これからは天国で花畑の世話をしてください。ご冥福をお祈り致します。(合掌)


■2021-05-04-Tuesday 大道芸?

とにかく暇なGWである。

コロナ禍での自粛期間中と云うこともあるが、天気も悪いから外出する気にもなれないし、強風の日ばかりであるから庭でのジンギスカンもやれやしない。

自宅に籠って、ただひたすらに読書三昧の日々である。

今年8月14〜16日の「平原まつり」はまだ開催するのか、しないのかが決まっていないが、この平原まつりの期間中に一緒に開催している「大道芸フェスティバル」に関して蔵書で調べものをしていたら、面白い文章を見つけたのである。

「芸能の始原に向かって(ミュージック・マガジン社刊)朝倉喬司著1986.4.10発行」と云う本の中の第3章「テキヤって何だろう」の中の「万年筆売り」(啖呵売 たんかばい)の口上に

「日本にはいろいろ万年筆がございますが、日本三大万年筆と称しまして、高価なお金をお出しンになって、子供さんにあてがう、二円も三円もする高価な万年筆、金ペンと申しますが、そのさきについておりますのがエレジウム、これが折れたり、欠けたりしたんでは、絶対使いみちンにならない、不経済なもんである。この点を考えまして、工学博士、北村義雄先生が三年八ヵ月と言うながい間、北海道十勝の国、石狩川の上流に研究所を設けました。蛍石に六万石の粉末合成、千二百度以上の熱をこめましてひきのばしましたのがこの万年筆、ガラスと違います、石でございます。どんなに乱暴にお使いになりましても、あるいは又、皆さん方がいそいでお書きになりましても、ペンが折れたり、欠けたりすることが無いという特許をとっております。さて、それでは・・・(以下略)」と載っていたのである。

同じく見世物の(因果物 いんがもの 「親の因果が子に報い・・・」)「蛇娘 花ちゃんヤーイ」と云う見世物の客引きの口上では蛇娘花ちゃんの生まれが「十勝の国 石狩川上流」になっている。と書いてある。

何故に研究所の所在地や蛇娘の生誕地が「十勝の国」なのだろうか。

何故に十勝なのに「石狩川上流」なのだろうか、「十勝川上流」と云うのならばまだ地理的には正しくなるのだが・・・

好奇心が押さえられなくなって、蔵書の中の大道芸関係書籍を調べてみたのである。そうしたら見つけた!

「坂野比呂志の大道芸(亜洲企画刊)下平富士男著1977.2.11発行」と云う本の中に「万年筆売り」と「蛇娘 花ちゃんヤーイ」の口上が載っていたのである。万年筆売りは前述したのとほぼ同じ内容であるが「蛇女」の口上が丸々載っていたので掲載する。

『皆さん方、可哀そうなのはこの子でござい、この子の生まれは北海道十勝の国、石狩川上流で生まれまして、ある日のこと、父親が鍬にてマムシの胴体真二つ、マムシの執念、子供に報いまして出来た子供がこの子でございます。当年とって十八歳、手足が長く胴体に巻きつくと云う教育は参考資料、大人が十銭、子供は五銭、お代は見てのお帰りだよ、さぁ、只今から花ちゃんが教を唱うよ、花ちゃんヤーイ、ホラ唱うよ、ホラ、只今花ちゃんが唱ってますよ、さぁ、これから皆さん方の眼の前で手足がのびていきますよ、さぁ、いらっしゃい、さぁ、いらっしゃい』

前述「芸能の始原に向かって」の中には、『見世物の歴史を調べると、明治に入って、まず「皇国の首都に見苦しい」と東京での性的見世物が禁止され(明治元年1868年2月)、相撲から蛇つかいまでも「醜体をさらす」からとといって禁圧の対象になった。同6年には不具者見世物が禁止、見世物小屋も次々にとり払われた。以後見世物は、都市風俗の表層から「消され」、もっぱらドサ廻りの、地方流浪の芸能として生きのびることになる。都市生活から「不思議」が追放され、以後百余年・・・(中略)この結果、地方に追われた見世物芸と、各地のタカマチにネットワークをもつテキヤとの結合はさらに強まり、濃密な共同性を形成することになった。とくに新開地北海道は、芸能を主体としたテキヤ家業の新天地となり、明治から大正にかけて北海道ではテキヤは大いに栄えた。札幌に本拠をおくあのキグレサーカスの母体もテキヤ組織である。(後略)』

北海道とテキヤ稼業との繋がりの深さは分かったのだが、何故に「十勝の国 石狩川上流」なのかは依然として不明のままである。

こんなことを調べていたら妻から呆れられてしまった。

私は、帯広市の繁華街のど真ん中の西2条南9丁目、いわゆる「まち」で昭和33年1月に生まれて育った。我が家の向かいには昭和36年に「藤丸デパート」が新しく建ったばかりで、両親が商売をしていた関係から毎日10円のお小遣いをもらっては近所の子供たちだけで遊んでいたのである。当時の10円は使い道が結構多かった。藤丸デパートでは地下の食品売り場にお菓子のバラ売りがあったし、階段の途中には透明な半球状のプラスチックに噴水の様にオレンジジュースが吹き上がって拡がって落ちて来る自動販売機でジュースが飲めた。店の隣の甘栗屋さんに行ったら店主の岩寺さんは2個甘栗を売ってくれたし、10丁目の「みつわや」と云うお菓子屋さんに行ったら量り売りでかりんとうやらかき餅やらが買えたのである。

その「御幼少のみぎり」にはサーカスや見世物小屋が我が家から30mほどしか離れていない裁判所跡地(西3条南9丁目の旧イトーヨーカドー跡)の空地によく掛かったものであった。

柱は丸太を縄で結び、壁はムシロの掘っ立て小屋である。面白いから建てる作業時から見ていたものだ。

蛇女や蜘蛛女などのオドロオドロシイ看板が、子供心をワクワクさせる。親に見たいから連れて行ってとせがんでもバカバカしいからダメだと言って連れて行ってはくれない。それでも子供の好奇心が勝って、自分で小遣いを貯めては見に行った。大抵はインチキでガッカリさせられるのがオチなのであるが、唯一、今なお強烈な印象があるのは「人間ポンプ」(安田里美)と云う芸である。口から火を噴くのである。口に灯油を含んで火の付いた棒に吹きかけると炎がバァ〜ッと伸びるのだ。ゴジラみたいで格好良いなぁと憧れたものであった。

近年は「街」が健全になり過ぎてどこもかしこも同じ様なツマラナイ街になってしまった。街には綺麗なだけじゃなくて怪しげ(妖しげ)で猥雑なモノも必要なのである。

綺麗なメインストリート、妖しげな裏通りや小路、いろいろなモノがあって「街」なのである。そんな思いを強くしたGWであった。