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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-06-01-Tuesday マイヒストリー

帯広JCメンバーで自民党の役員をしている後輩から、

中川昭一代議士を私に会わせるので「国際環境大学構想」を説明してくれと言われた。

1996年2月25日(日)に中川昭一代議士が我が社を訪ねて来た。以前に数人で対談したことはあったが、1対1で話をするのは初めてである。私がものの30分ほども構想を話したところで、「もういい。私には君が何をやりたいのか、サッパリ理解できない。」と言って席を立って帰って行ったのだ。私は呆気にとられて「エッ?!」と言ったきり言葉が出てこなかった。理解出来ないなら何か私に質問でもすれば良いではないか。まるで、私の話を聞くのが時間の無駄であるかのような態度に頭に来たのであった・・・。

3月6日には市役所に高橋市長を訪ねて市長室で「十勝環境ラボラトリー(TKL)」の構想の説明を行ったが、こちらもまるでそんなことには関心が無いという態度である。8日には十勝支庁を訪ねたが、こちらも同様に無関心であった。

十勝を世界的な注目を集める場所にするという、せっかくのチャンスなのに何故、政治家たちは理解出来ないのだろうか?

TKLの理念は現在の世界でも十分に通用するものだと思っているのに・・・。

政治や行政は、どうせ後からなびいて来るだろうと気楽に考えることにした。

10日には東京から文化科学高等研究院の教授たち3人が十勝を訪れていよいよTKLの活動が本格的に始まったのである。この後、大学教授らが頻繁に十勝を訪れるようになって着々とTKLの準備が整い出した。3月11日には「国際環境大学公開講座」のプレ第1回の講座「十勝の可能性」を福井憲彦学習院大学教授を講師に坂本ビルで開催した。(以後2005年6月までに同公開講座は通算80回開催した。)この時、今後招聘する(のべ80名)講師等を全員十勝のファンにしてしまい、以後は私用でも十勝を訪れてくれるようにと戦略(楽しい遊びと美味しい食)を考えて実行した。これは大成功し、現在も多くの方々が十勝を訪れてくれている。

3月30日に東京で大学設置審議会が開催され、私が田守順理事長の代理としてJC代表で出席したが、審議会では全くと言っていいほど何も決まらない。4月11日に帯広市役所で開かれた帯広市大学設置促進期成会も同様にさっぱり前に進まないのだ。

4月16日になって帯広日産自動車の田中社長が私に会いたいと言ってきた。日産自動車の本社が帯広日産を飛び越えて、TKLに資金を出すということが判ったからだ。帯広日産としても何か協力できないか?とのありがたい話であった。また、富士ゼロックスの帯広市社でも同様のことが起きていた。やはり、本社が直接にTKLに資金援助をするので、帯広市社の人は事情がまるで呑み込めなかったようなのである。

一方で新たに設立するTKLの会長の人選に手間取った。TKLの母体になる会社「十勝環境モデル研究所」の方は、大学教授らからのご指名で私が仕方なく社長をやることになったのだが、活動部隊である「十勝環境ラボラトリー」の会長には成り手がいなかったのだ。

そこで、青年会議所で私と一緒に昭和62年の同期入会で作っている「無二の会」の会長の真井康博(慶愛産婦人科病院副院長:当時)氏を口説いてお願いしたのである。同期入会といっても私よりも8歳年上で既にJCは卒業している。このTKLの方は私が「事務局長」という立場になった。

5月24日には文化科学高等研究院の竹沢えり子社長と私とで、帯広市役所の記者クラブにおいて「十勝環境ラボラトリー」の設立を発表した。

余談だが、この年、無二の会では入会10周年記念の家族旅行を計画していた。これは私が幹事役で5年前から積立貯金をしていたのである。最初はオーストラリアのケアンズに行く予定であったが、メンバーの一人が透析患者になってしまっていたので、途中で透析が受けられる場所に変更しようということになってハワイになったのだ。帯広市出身でハワイで現地のホテルマンと結婚している女性を窓口にして連絡を取り合い、とても楽しい計画を練った。私は他人に喜んでもらえる企画を立てるのが大好きなのである。医者が2人と歯医者が1人いるから長期の休みは取れない。それでも1年前から日程を決めることで対応して、8月2〜7日に8家族37名での楽しい大家族旅行を行った。(つづく)


■2010-06-02-Wednesday マイヒストリー2

十勝環境ラボラトリーは楽しかった。

1996年に公開講座に招聘した教授名(肩書は当時)を並べると、3月福井憲彦学習院大学教授、4月矢野雅文東北大学教授、6月橋爪紳也京都精華大学助教授、6月岡本哲志さん、7月山本哲士信州大学教授、8月高橋順一早稲田大学教授、9月金森修筑波大学助教授、10月陣内秀信法政大学教授、11月田中直子さん、12月鷲田清一大阪大学教授という錚々たる顔ぶれであった。

また文化科学高等研究院のスポンサー企業とのつながりもできて、飛島建設(プティ・ミュゼ美術館)や東京デザインネットワーク(ソニー・NEC・キャノン・日立・日産などが加盟)の行事などにも呼ばれていく機会が増えた。

また、TKLが環境問題の研究者間では話題に上り始めていて、「地球環境戦略研究会議(4月)」や「ゼロ・エミッション東京会議(7月)」などの環境問題を話し合う会議への出席要請が来て参加していたのだ。

帯広市の大学審議会もメンバーの大学教授(進藤栄一筑波大学教授・石澤良昭上智大学教授・土橋信男北星大学教授)らの都合で東京で開催されたので、それにも全部出席したから、やたらと飛行機に乗っていた感がある。

充実している時というは忙しいことが逆に嬉しいものである。高揚感があり、スケジュール帳に空きがあるのが我慢できなくなって、やたらと何でも引き受けて自ら忙しくしていったのだった。

2月には自衛隊のご招待を受けて、ヘリコプターに乗って札幌雪まつり会場上空を遊覧飛行させてもらったりもした。

同時に家族サービスも忘れずに、1月にはタイのプーケット、4月にはサホロ、5月にはトマム、8月にはハワイ(無二の会家族会)に連れて行った。

遊びの方も充実していて1月11日には大相撲の初場所を、今、話題になっている向正面の砂かぶり席で観戦してテレビにしっかり映った(私には忠誠を見せる親分はいないが)後に、伊勢の海部屋に行ってちゃんこ鍋を力士たちと一緒に食べるという経験もさせてもらった。

ゴルフも暇を見つけては熱心にプレーして、この年も11月にJCじゃがいもクラブの年間賞を獲得してハワイにゴルフにまで行ったのである。忙しい時には逆に集中力が増すものだと実感した。

忙しくて充実していると段々と気が大きくなるものだ。この年は変な買い物をした年でもあった。6月30日に息子が飼っている亀の餌を買いにペットショップに子どもたち3人を連れて行ったら、そこで子犬を販売していたのだ。長女がラブラドール・レトリバーの一匹を抱いて「この犬、欲しい〜!絶対にチャンと世話するから〜」と抱いたきり離さない。「30%割引きしますよ!」と店の人が言うので思わず買ってしまったのだ。これが去年死んだ駄犬サニーくんだった。そのすぐ後に、今度は黒いメスをサニーの嫁さんにしてやろうと思って買ったのが名犬バニーちゃんでこちらは1円もまけてくれなかったのである。(この件は以前に書いたのでそちらを参照のこと)(つづく)。


■2010-06-03-Thursday 鳩山首相退陣

鳩山総理大臣が総理退陣した。

(この文章は2日の11:30に書いている)濁点の付く場所が問題だ!

イャァ〜、ブームというのは怖いものだ。

津波の様に波が襲ってきて、また、津波が引くようにゴッソリと何もかも持って去って行く。

去年の夏頃の民主党ブームも津波のごとくに凄まじかった。

その波に乗って、鳩山由紀夫が首相になったが、たったの8ヶ月しかもたなかった。自民党末期の首相達3人(安倍、福田、麻生)よりも短い期間だ。

先の総選挙で自民党が大敗し、復活の兆しさえ見えない体たらくの有り様なのだし、新しく出来た小党達も期待が薄いなかで、この退陣は鳩山首相の「自爆」以外の何物でもない。

自らの(異常に)軽い発言で、自らの首を(ただ)絞めただけにしか見えない。

特に今回の退陣の直接的原因になった「普天間基地問題」こそ完全な自爆だろう。

元々、普天間基地を辺野古周辺に移転させる計画は、自民党が進めてきた案だろうに・・・。自ら深い考えも、腹案も無しに「パンドラの匣」を安易に開けてしまった。

それを出来もしないのに「最低でも県外移設」だの「5月末までに結論を出す」だの「(腹案もないのに)腹案があります」だのと、民主党の閣僚たちでさえ無理だと思ったのか、いろいろと助け舟を出しているのに、鳩山首相だけが一切構わず、頑固に言い続けるから、こんな事になるのだ。

最近の雑誌には、鳩山由紀夫の精神分析特集が組まれるくらいに、彼の考え方や行動規範がどこにあるのか、国民も、いや国会議員や民主党の仲間でさせ判らない有り様だったのではないのか?

こんなお馬鹿なリーダーを担いじゃったら、下の者はバカバカしくてやってられなくなるだろう。

会見で「国民が聞く耳を持たなくなった」と言っていたが、そうさせたのはアンタ本人だろうと思わずテレビに向かってツッコンでしまった。

結局、鳩山由紀夫は首相の器ではなかったということだ。

何だか会見では、「俺は、誰も辞めさせられない小沢幹事長を道連れに辞めるんだぞ!」みたいな感じが伝わってきたが・・・。

小沢一郎もこのままの辞め方なら政治生命が断たれてしまうから、このまま大人しく辞めることはないだろうと思う。もし今、辞めたら検察にやられてしまうと思っているだろう。

それにしても、小沢という人物は、選挙は上手いのかもしれないが、政治の運営は下手くそ極まる。小沢が担いだ、細川も羽田も鳩山も全てが超短命内閣で終わっている。その原因を作っているのが小沢本人なのだから、小沢という人物は鳩山由紀夫以上に政治に向いていないのかもしれない。

だが、まだ自ら代表選挙に自ら立つ可能性だってゼロではないと思う。

候補に挙がっている菅直人も首相の器ではないと感じる。

民主党の議員連中が次の参院選目当てでの、今回の退陣だろうことは、国民はすでに見透かしている。国民だっていくらなんでもそこまで馬鹿ではないだろう。首相が変わるくらいで政治が変わるのだろうか?

日本の政治はこれから一体どうなるのだろう?


■2010-06-04-Friday マイヒストリー3

1997年1月15日に、

タレントの田中義剛が十勝環境ラボラトリー(TKL)の事務所にやって来て、相談したいことがあるからと寿司屋の寿司正に招かれた。

2月に中札内で犬橇レースをやるというのだが協力して欲しいということで、結局、そのコース造りの為に、真井会長のスノーモービルを貸すことになったのだ。

田中義剛との接点は95年三役の時に、帯広空港近くのドイツ村グリュック王国で井上理事長と田中義剛との会談をセットしたことに始まる。ちょうど田中義剛が中札内に移住して花畑牧場を開設した時だった。

真井会長との接点は田中義剛の奥さんが真井会長の慶愛病院で出産したことによるものだ。当時はまだあまり上手く運営出来ていなかった花畑牧場は、いろいろな伝で十勝の人間を頼っていたのだ。これをキッカケに田中義剛との交流が始まったのである。

我が家もサニー&バニーというラブラドール・レトリバー犬を96年に買ったばかりだから犬の躾をしたいと思っていた。当時の花畑牧場には村中という優秀なドッグトレーナーが居たので、毎週犬を連れては中札内に通い出したのである。

最初は犬の調教で、それが一通り終わったら犬のディスクドッグ競技に誘われたのだ。フリスビー(円盤状のおもちゃ)を遠くに投げて犬を走らせてキャッチさせる競技である。

その内に、田中義剛が花畑牧場に馬術練習場を造りたいと言い出した。真井会長が協力してやれというので、TKLのメンバーからお金を集めて馬場に撒く砂利代を負担してあげたのだ。田中義剛もそのお礼に毎週、馬術教室を開くから通って欲しいというので、義父や妻と一緒にヘルメット・ズボン・手袋・ブーツなどを買い揃えて5月18日から通ったのであるが、3,4回やったところで馬の調教師が九州に行くことになったと言って休止になってしまった。以来、今日に至るも馬術教室は再開されていないが・・・。

乗馬関係では、TKLメンバーの後藤健市(北海点字図書館)の関係で、6月18日に花畑牧場の乗馬場で「視覚障害者の乗馬体験」なども行った。

4月22日に田中義剛がTKLの事務所を訪ねて来て、今度は「フリスビードッグとアジリティの大会を帯広で開催したいからスポンサー探しに協力して欲しい」と言うのである。当時、テレビCMで犬を使った場面を流していた第一熱源という会社を紹介して欲しいというので、24日に社長に会わせてあげたら、気前よくOKが出た。資金面は何とか手配できたので今度は会場である。5月1日に市役所に連れて行って場所も確保。その後も打ち合わせの度に市役所に同行したり、中札内まで出掛けて準備を手伝ったりした。

8月17日の日曜日に帯広の森の「創造の森公園」を会場にして「第一回ドッグフェスティバル」を開催し、私もボランティアスタッフとしてまじめに汗を流したのであった。

妻もバニーと一緒にアジリティ競技に参加したが、バニーは優秀な犬なので2部門で入賞したのだった。

私もサニーくんとフリスビー競技に参加するように熱心に勧められたのだが、駄犬サニーくんはフリスビーを空中でキャッチする時に背中から地面に落ちるという運動神経の無い犬なので、とても恥ずかしくて参加できなかったのだ。

馬術教室はなくなったものの、犬のフリスビーの方は10月中旬までは続いていたが、犬の調教師の村中氏が花畑牧場を退職したので、我が家も、花畑牧場とは段々疎遠になっていったのだった。(つづく)


■2010-06-05-Saturday 読売風向計

読売新聞北海道版「風向計」

2010年6月3日掲載「都会と田舎 往来ライフ」

このところ、本州から十勝に遊びに来る方が増えてきた。いずれも私が情報発信している馬肉と鹿肉を使った新グルメ「馬鹿(うまか)もん」を食べてみたいという方々である。

きっかけが何であれ、訪れてくれるのは嬉しい。先日は、ご夫婦で来られたので、私たち夫婦と一緒にゴルフをプレーした後に「馬鹿(うまか)もん」を食べに行き、翌日は午前中に中札内の美術館や農園を訪れ、昼の飛行機で帰京した。

私には、このスケジュールがとても慌ただしいように感じるのだが、本人たちは十勝に来ると、起きてから寝るまでの一日がとても長いと言う。東京の倍は長く感じるらしい。時間の流れるスピードが東京と十勝では違うのではないかとまで言う。

このご夫婦は、訪れる季節を変えて、毎年のように十勝を訪れているが、二人とも、普段は東京の経済界の第一線で活躍し、仕事で疲れたらリフレッシュのために十勝を訪問する。

このご夫婦に言わせると、「十勝の良さは、何といっても食べ物のおいしさ」にあり、「来るたびに食べ過ぎて、体重計に乗るのが怖くなる」と冗談ぽく笑う。しかし、そんなご夫婦でも、十勝に移住しようとは思わないとのこと。その理由の第一は「職」が無いからだ。

十勝は「食」には魅力があるのに「職」が無いから移住は無理だと言う。便利なインターネットなどが普及して、移動せずに仕事ができる時代になったのかと思ったが、まだ実態はそうでもないらしい。東京に居なければできない仕事の方が多いそうだ。

では、引退後なら移住するかと問うと、遊びに来るのと生活するのとは別問題だとも言う。東京でのハードな仕事があるからこそ、十勝で遊ぶことがリフレッシュになるのだろう。時間のスピードが異なる十勝でずっと暮らすことには戸惑いがあるのかもしれない。

逆に私は、たまに東京に遊びに行くことがリフレッシュになる。普段の生活と異なるから気分が一新するのだ。

日本の現状は、相変わらず若者は職を求めて都会に住み、定年になった老人も都会に住み続ける人が多い。これでは田舎はどこも過疎化と高齢化で限界集落になり、地域社会の機能を失っていく。

別荘を持てと言うわけではない。住まいを都会か田舎のどちらかに固定してしまうのではなく、老若男女が都市と田舎を交互に有効的に行き来するライフスタイルをつくれないものだろうか?

人が交流することで、感性が豊かになり、そこから新しいアイデアや仕事が生まれる可能性が高まると思うのだ。


■2010-06-06-Sunday マイヒストリー4

97年は色々なことがあった年だ。

前年の96年8月初旬にJC同期入会の会「無二の会」のメンバーでハワイに家族旅行に行ったが、その際に世話になった帯広市出身のマリコさんが旦那のジョージ君と一緒に3月中旬に帰郷するのに合わせてお礼の歓迎会を開くことにした。

その前日に2人を然別湖に観光に連れて行こうと思ったらマリコさんが熱を出したので、マリコさんを無二の会メンバーの登坂聡医師の病院に連れて行って、ジョージ君と二人だけで然別湖に向かったのだ。

鹿追町の木陰になっているカーブで、ブラックアイスバーン(太陽の熱で一旦溶けた氷が日陰になって再び凍る現象でとても滑りやすい)で車が横滑りにスリップして路肩に落ちたのだ。ジョージも私も幸い怪我はなかったが、交通量の少ない場所だから、途方に暮れていたら、ミルクタンクのローリー車が通り掛って、引き上げてくれた。

ジョージも「死ぬかと思った!」と言っていたほどだったので、観光もそこそこにして帯広に引き返したのだった。

また、この年はあやうく詐欺に引っ掛かりそうになった年でもあった。

5月中旬に旭川で花屋をやっているSという女性が、我が社を訪ねて来た。帯広に支店を開きたいと、店長候補者という若い男性を連れてやって来たのだ。調べてみたら確かにその花屋は旭川市で営業をしていた。

彼女が店を開きたいという場所は母が所有する幕別町札内の国道沿いの土地である。使っていない土地だからOKし、5月下旬までに4回会って条件等を話し合い、6月下旬に契約する段取りになった。

S女史が言うには「まずは、店舗を建設してくれる業者と見積もり等をおこないたいから6月19日に仮契約を結んで欲しい。その後に本契約という手順でどうだろうか?それまでに、そちらは測量を済ませておいて欲しい。」と言うのでOKして仮契約を結んだのだ。

6月下旬になると「業者の見積もりが、まだ揃わないので契約は7月4日(金)の14:00にして欲しい。」と言う。

7月4日になって14:00に母と会社で待っていたら、交通渋滞で遅くなるという電話が入った。S女史が会社に到着したのが14:55頃、挨拶もそこそこに、すぐに向かいの銀行に行って契約金を下してくると言って出ていったが、すぐに戻って来て、「15:00を過ぎてしまったので下せなかった。明日の土曜日から工事に入りたかったのだが・・・、7日の月曜日にもう一度旭川から来て契約をし直します。」と言う。

相手は旭川という遠方だし、それまでに10回は会って契約内容などをつめていたのですっかり信用してしまい「契約金の入金は月曜日でも結構ですよ」と言って印鑑を押して契約を結んでしまったのだ。この辺が実に上手い!

さぁ、それからは7日の月曜日を過ぎても何の音沙汰もない。

幕別町札内の土地を見に行ったら、プレハブ小屋が建っていて、開店準備を始めている様子なのだが、人っ子一人居ないのだ。

どうなっているのだろうと、S女史に電話するが、なんだかんだとはぐらかすので、妻の旭川に居る親戚に電話してS女史のことを知らないかと聞いたら、「エッ、Sだって、そいつは詐欺師だよ。実は自分も引っ掛かりそうになったんだよ。」と言うのだ。

もう少し早くに聞いておけば良かったと思ったが後のまつりである。

S女史に電話して、早急に契約金を入れなさい。そうでなければ早急に工事を中止するようにときつく言ったのだ。工事はストップし、その後2週間ほどしてようやくプレハブも撤去されてこの騒動は終わったのだった。

当方の実害は、測量に掛った20万円程度であった。どうやら、母の土地を舞台にした、詐欺計画を未然に防いだのだろうと思うのだが、それにしてもS女史の狙いは一体どこにあったのだろうか?今に至るもサッパリ解らない事件であった。(つづく)


■2010-06-07-Monday マイヒストリー5

帯広市の大学設置構想にも問題が多かった年だ。

97年の4月初旬に文部省が、2000年以降の北海道の大学新設の基準を緩和するという方針を発表し、帯広の大学新設問題も追い風に乗ったかと思ったのだが・・・。

5月初旬に京都の瓜生山学園が芸術系の大学を北海道に設置する構想が浮上した。ほぼ同時期に帯広市役所は帯広大谷短期大学を四年制大学にするべく交渉を開始していたのだ。

帯広市には96年の11月頃に大谷学園側から四年制大学への協力要請があったらしい。

帯広市は5月9日開催予定の「十勝大学設置促進期成会」の理事会に諮り、19日の総会で決定させる方針だということを、5月2日の新聞社からのインタヴューで知ったのである。

これまで「公設民営方式」での大学新設という方向で話し合いが進んでいたのに、脈略もなく大谷短期大学との「公私協力方式」に舵を切ると言うのだ。

9日の理事会で大谷学園四年制大学のカリキュラムなどが発表され、この時、高橋幹夫市長は芸術大学構想からは正式なアプローチがないから議論の対象にはならないとこの構想を否定し、帯広市としては大谷との公私協力方式で進めたいとの意向を表明した。

公設民営方式の話し合いをしている最中で、まだ結論も出ていない段階なのに、いきなり大谷との公私協力にするというのは、会議の存在自体を無視した暴挙だ。当然ながら委員の反対多数で、先送りすることになり、19日の総会の議題にはしないことが決定されたのだった。

大谷学園の理事者の坊さんが期成会の理事会に出席して、委員に協力を呼び掛けたことがあったが、この人物というのが反感を買う最大の功労者(?)であったのだ。「大谷は別段、帯広市の協力なんてなくたってへっちゃらだ」とか「大谷短期大学はもともとニチイ(現ポスフール)の場所にあって音更町に移転したが、いつかは帯広に帰りたかった。」などと戯けた事を言うのである。帯広市から音更町に移転したのは、この時に出された条件を天秤に掛けて音更町の方が帯広市よりも良かったからなので、それをまた条件が良いから帯広市に戻りたいというのは、誰が考えても失礼な話だろうに・・・。

帯広市の拙速な会議運営と、大谷の失礼な態度などで結論が先送りされたが、帯広市は依然として大谷との公私協力をやりたい意向で、高橋幹夫市長は「7月14・22・28日に期成会の理事会を開催して、7月末までに大学問題に結論を出したい。」と記者会見で発言したのである。それに反発した若手経済人が7月19日に「十勝の大学を考える実行委員会」を発足させ、公開討論会を行うという企画を発表し、その記事が9日の新聞に掲載されたのだ。

私は、早速、翌10日に川上直平商工会議所会頭から電話で呼び出され、開催の延期とチラシに載せた主催者名から商工会議所名をはずすように迫られたのだった。私の立場では一人で討論会をやるとも止めるとも結論は出せないと帰ってきたが・・・。

翌11日に出張中だった商工会議所副会頭が、我々に相談もなく出張先から電話で公開討論会の中止を発表したが、他の若手経済人は納得しない。

結局、帯広市側との対立構造を薄めて、静かなトーンで討論会を開催することで落ち着いたのだった。

14・22日の理事会ですったもんだの末に「公設民営方式を調査・研究する幹事会」の設置が決定され、大谷との公私協力への決定は先送りされたのだった。

この幹事会の委員メンバーが8月26日に文部省を訪問し「大学新設の審査は設置形態には関係しない」との回答を得て来た。

これまで、帯広市が再三に亘って言ってきた「公私協力方式でなければ大学の新設は難しい」という発言に対して市議会でも「今まで市はどんな情報収集の仕方をしてきたのか?」という疑問が噴出し、大谷短期大学の講師を務める身内からも帯広市のやり方に疑問が出てきて、公私協力方式を白紙にする動きも出てきた。

私は、95・96・97の3年間に亘って、青年会議所のそれぞれの理事長(井上洋一・田守順・山本英明)の代理出席という立場で3年間ずっと大学設置促進期成会などの会合に出席していたが、次の98年度の伊豆倉寿信理事長は自分が会議に出席すると、私の代理出席を認めなかったので、この年を最後に、私と大学問題との縁が切れてしまうことになったのだ。

98年春に行われた帯広市長選挙で現職の高橋幹夫が、新人の砂川敏文に敗れたこともあって、結局、その後は、帯広市側が大学新設に情熱を失ったのか、大学問題はうやむやになっていく。現在に至るも、帯広の大学問題はさっぱり前に進んでいない。(つづく)


■2010-06-08-Tuesday マイヒストリー6

97年夏には帯広市長を仲間から出そう

という話が急浮上した。このまま高橋幹夫市政が続けば、帯広の未来は危ういと考えたのだ。

十勝環境ラボラトリー(TKL)を支援してくれている大学教授の方々も「この構想(TKL)を実現するには市長を自前で出すのが一番だ。我々も協力を惜しまないから是非ともやりなさい」とハッパを掛けられたのだ。

そこでS氏に市長選出馬の話を持ちかけたら、本人もその気になって「当選したら君が助役をやって補佐してくれるか?」とまで言うのである。

しかし、S氏の父と兄に、私が呼び出されて「変なことに弟を引っ張り込まないでくれ!」ときつく言われ、本人も親兄弟が反対するので出馬しないということになってしまったのであった。

大学教授らからは「TKLには人材が豊富にいるんだから、別な候補者だっているだろう」と更にハッパを掛けられて、今度は若いG氏に白羽の矢が立った。

この時に「TKLがそんな政治的な活動をするなら俺は辞める」と言って抜けたメンバーもいた。

そんなこともあって、TKLの役員会議でこの件を話し合う度に、段々と皆が弱気になってトーンダウンしていった。TKLが政治活動をするのは如何なものかという意見が徐々に大勢を占めたのである。

結局、TKLの幹部会議で、TKLは選挙には一切関わらないという結論に達したのである。大学教授らから壮大な夢の実現計画を吹き込まれたGと私の2人以外は・・・。

皆の腰が引ける中、Gと私は、市長選挙には、TKLとは全く無関係で個人的に出馬するのだと宣言して出馬することにしたのだ。

だが、私もGも選挙に関しては全く無知の素人である。

大学教授から、市川房江や菅直人の選挙参謀を務めたK・M氏を紹介され、Gと2人で東京にまで出向いて選挙の指導を仰いだりもした。

しかし、Gは、噂を聞きつけた連中から、酷い嫌がらせを受けてスッカリ嫌気が差してしまい、最後の最後98年2月中旬には出馬はしないと言い出したのであった。つくづく選挙とは汚いものであることを知った。

結局、TKLからは市長候補者が出ないということになって、TKL解散の危機は消滅し、また元の鞘に収まったのだった。

こんあこともあった。10月7日の夜に、帯広経済界の先輩であるY氏とY氏から、私とGが呼び出された。「お前たち2人がやろうとしていたことは全部知っている」「実は我々は、高橋幹夫の対抗馬としてある人物を担ぎ出したいとずっと活動してきたのだ」「その人物は北海道開発庁の役人だが、とても良い人物だ」「奥さんが帯広出身で、本人も帯広畜産大学の卒業生だ」「ついてはお前らに、この候補者の後援会の役員をやって欲しいのだ」と言うのである。その候補者というのが砂川敏文前市長だった。

自分たちが引っ張り出す人物なのに、自分たちは陰に隠れて、表には違う人間を立てるやり方には疑問を持ったので、私は「まだ一度も会ったこともない人物を後援することなんて出来ない」と即座に断ったのである。

98年春の市長選挙で、現職の高橋幹夫氏が三期目に挑戦するという本来なら現職が一番強いはずの選挙で負けて、新しく砂川敏文氏が市長になったのだった。(つづく)


■2010-06-09-Wednesday マイヒストリー7

商工会議所の方も新会頭が決まらないまま

97年11月11日に商工会議所の第22期の議員選挙が行われた。

話は遡ってこの3年前の94年、私は、父が商工会議所の1号議員(任期3年間)をしていたので、父が亡くなった後の1992年から第20期の議員を務めていた。当時、私は最年少34歳の議員であった。

任期残存期間の2年間議員を務めたが、商工会議所というところは、私の性格には合わない組織だと感じていたので、94年に迎えた改選期(第21期)には、立候補をしないつもりでいたのだが・・・。

私と同じ様な境遇(父親が議員だったが死去して、代わりに議員になった青年会議所の現役メンバーである先輩)のF氏から「どうせ、選挙になんかならないから、届け出だけ一緒にしておいて、選挙になったらその時に去就を考えても良いんじゃないか?」と言われたので、その言に従って立候補の届け出だけはしておいた。

ところが、94年の第21期は事前の調整(選挙にならないように候補者を降ろさせる)が上手く行かなかったようで、定数45名に対して50社が名乗りを上げたのだった。

私の会社に会議所議員のM氏から「今から行くから・・・」と電話が入って来訪をうけた。

何の話かと思ったが、M氏は「私は亡くなった貴方のお父さんの三中時代の教え子なんだよ」と言う。知ってはいたが「ヘェ〜そうだったんですか」と返すと、今度は自分の息子の結婚式の席順表を拡げて「この席には○○、ここには△△、ここには□□」と著名人や芸能人の名前が書かれた場所を指し示すのだ。どうやら「俺はこんな有名人たちと懇意にしているんだぞ!」とでも自慢したかったのだろう。

私はこの人は一体何をしに来たのだろうか?と訝しく思っていたら、「君はまだ若いからこれから何ぼでもチャンスはある。だから今回の会議所の選挙は、私の顔を立てて降りてくれないか?」と言うのである。もとより選挙になったら降りるつもりでいたのだが、顔を立てる相手が悪かった。他の人物が来たのならスンナリ「ハイ、辞めます」と言っていたものを・・・。

このM氏は評判のあまりヨロシクナイ人物であるから、この人物の顔を立てて降りたりしたら「坂本は、私が降りろと言ったら簡単に降りた。」と言って回るだろう。そう言わせる訳には絶対にいかないと思ったのである。

結局3社が辞退したが、それでも2人、候補者数が上回ってしまったので、21年振りに選挙になることが決定したのであった。

私とF氏の2人が余分なのであるから、目の敵にされてしまった。

「つまらぬ戦いをしたくはないが、戦う以上は絶対に負けない!」というのが私の信条でもある。それから、票を集めに走りに走り回ったのであった。

商工会議所の議員選挙というのは、公職選挙とは全く異なるシステムで行われる。商工会議所の会員企業が出資する口数に応じて投票する券を持つのである。まず1号議員に立候補する企業は50口(一口5千円)25万円の出資をしなければならない。大抵の会員企業は1〜3口程度の口数(=票数)を持っている。これを白票のまま「私に下さい」と言って集めて回るのだ。大きな会社になると5〜10口持っているところもある。そういう会社から票をもらえたら楽なのだが、選挙になると判明した瞬間に全員の立候補者が集票に走るから、当然そういう大きい会社から順番に狙うのである。

また、票を金で買う様なこともできるのだ。投票日の前日までは会員企業の増口は自由だから、例えば1口しか持っていない企業に出向いて、5万円を渡して10口の増口手続きをしてもらえば合計11票を獲得できるのだ。選挙が終わった翌年にまた減口手続きをすれば良い。だが、こんなことをする人は少ない。なるべく足で票を稼ぐのである。

私は、幸いにも当選ラインに十分に届く数の票を集めることができたのであった。

こういうゲーム的な要素があるものは、もともと大好きな性分なのだ。(つづく)


■2010-06-10-Thursday マイヒストリー8

さぁ、投票日になった。

この投票システムも変わっている。各企業からもらって来た白票に、自分の名前を書いて投票するのだが、時間内なら何度でも投票することができるのだ。

総得票数が18000票ほどだから、それを立候補者数の47人で割ると382票になる。つまり、382票を持っていれば絶対に当選するわけである。

まず、私は、このラインに近い370票を自分に入れた。なぜ、全票入れずにそんなことをしたのかといったら、先に書いた私と同じ境遇のJCメンバーであるF氏が、ボーダーラインギリギリの票数230票ほどしか集められなかったのに、呑気にもJCの行事で出張したというのだ。

彼は自社の社員に投票を託して出張してしまったというのである。その社員は朝方に、託された全票の230票ほどを投票して自社に戻っていたが・・・。

そのことを最初に投票する時に、その社員から聞いて初めて知ったのだった。

同じ境遇で、しかも同じにM氏から辞退を迫られて拒否した仲間だから、彼を落とす訳にはいかないと思ったのだ。

商工会議所の選挙は変わっている。

投票日には時間内なら何度でも投票できるシステムだから、ボーダーラインギリギリに居る人たちは、選挙人名簿(商工会議所の会員名簿)を見ながら必死に電話を掛けて、まだ誰にも渡していない票がないかを掘り起こして、集めて来ては自分に投票することができるのだ。

さすがに、誰も落ちたくはないから、皆が必死に集票して来て、ボーダーラインは少しずつ上がって来る結果になって、ついに、F氏の社員が朝方に入れた票数がボーダーラインを割ってしまったのである。

私はこういう投票システムだから当然こういう事態になるであろうと予想していたが、まさか彼が投票日当日に、呑気に出張しているとは思わなかったから、事前にF氏とは打ち合わせなどはしていない。すぐに携帯でF氏に電話するが繋がらないのだ。

彼の会社に電話して、朝方投票していった社員を呼び出して、「票はもう持っていないのか?」と尋ねたら「無い」と言う。このままでは彼は落選してしまう。

他社がそれ以上もう投票できない、締め切り時間ギリギリに私の残票を全部F氏に投入することにして、推移を見守った。

結局、彼に私の残票30票ほどを回してあげて、彼は45人中の43番目(263票)、次点(243票)で落選した人とは20票差で辛くも当選することができたのだった。ちなみに44・45番目の人は同数票(259票)でその差は4票であった。私が持っている全票を一度に自分に投票しなかったから良かったのだ。

この第21期が94〜97年までの任期であった。

この第21期を終了したので、私も商工会議所を辞められると思ったのだが、次の22期というのが、新会頭が決まらずにゴタゴタしていたのだ。

会頭候補の筆頭であった藤本長章副会頭が会頭就任を固辞したところから始まった騒動である。

いろいろな候補者の名前が出ては消え、出ては消えしていた。その内、商工会議所の若手議員が年輩議員の密室政治に反発して、ある議員を新会頭に推す会合を開くから集まれと言われた。「私は今期で会議所を辞めるつもりなので行かない」と言ったら、「お前なぁ〜帯広の経済界の未来が掛っているのにそんな態度で良いと思っているのか?」と怒られたのである。「辞めたくても、もう一期だけお礼奉公のつもりで務めてくれ」と懇願されて辞めるに辞められなくなってしまったのだ。

11月11日に行われた選挙は定数45に対して49社の立候補があり、前回に続いて投票が行われた。今回は新しい会頭を選ぶ選挙だから、年輩議員と若手議員の争いみたいな団体戦の様相になったのである。

選挙が終わってから、何度も議員総会が開かれるが一向に新会頭が決まらないのだ。結局川上会頭の任期を5カ月間延長して98年5月に岩野洋一新会頭が決定したのだった。(つづく)


■2010-06-11-Friday マイヒストリー9

97年もTKLは順調だった。

この年に招聘した公開講座の講師(いずれも肩書は当時)は、1月:石山修武(早稲田大学教授)、2月:高野禎子(湘南国際女子短期大学助教授)、3月:阿波弓夫(法政大学講師)、4月:塚原史(早稲田大学教授)、5月:内田隆三(東京大学教授)、6月:古橋信孝(武蔵大学教授)、7月:寮美千子(作家)、8月:美濃羊輔(帯広畜産大学教授)、9月:松下和夫(環境事業地球環境基金部長)、10月:森重雄(電気通信大学助教授)、11月:初田亨(工学院大学教授)、12月:平田敏行(建築家)の12名であった。

私は事務局長として9つのプロジェクト全てに関わっていたが、中でも、法政大学の陣内秀信教授とその教え子である岡本哲志(都市建築研究所主宰)氏をブレーンにして、私がプロジェクトリーダーとになって「都市構想プロジェクト」が始まり、帯広市中心部の調査・研究を始め、帯広市中心街の将来像を模索したのだった。

また、私がプロジェクトを直接に担当したもう一つのプロジェクトは「場所カープロジェクト」であった。これは日産自動車と協働して十勝という場所に相応しいガソリン以外の燃料で走る自動車を開発しようという試みである。

具体的には電気自動車ということになっていった。当時の電気自動車のウィークポイントは気温がマイナスになるとバッテリーの電気が放電してしまって長持ちしないということであったから、冬季間、気温がマイナス20℃以下にもなる十勝で通用する電気自動車を開発すれば、世界中の寒冷地でも使用可能な車になるという目論見であった。

当時、既に、日産自動車では「EV5」と「ハイパーミニ」という電気自動車を開発していた。このハイパーミニを使って、自動車の領有実験(カーシェアリング)を行おうと企画したのだが・・・。

これは失敗した。帯広駅はターミナル駅ではないので、自宅から駅に自動車で通う人がほとんど(全くといってよいほど)居なかったからである。

それでも、「帯広TMO提言書(1998年4月1日発刊)」にも盛り込んだプランだが、小型の電気バスを走らせて、帯広の新しい公共交通体系を作る計画を考え出したりもした。

5月16日(私の結婚記念日)から「新聞紙上セミナープロジェクト」の「十勝の場所の意志に学ぶ」がスタートした。地元の新聞、十勝毎日新聞の土曜日の文化欄に1000〜1200字のスペースを提供してもらって、ここに公開講座に来てもらった講師の方々から「十勝に対する提言」を寄稿してもらうプロジェクトである。2006年3月25日までの429週に亘って掲載し、これをまとめた本を3冊出版した事業である。書くことが大の苦手だった私が、今日の様に、書くことが好きになる要因を作ってくれたプロジェクトであった。

7月に講師に呼んだ寮美千子さんと「環境童話製作プロジェクト」がスタートした。こちらのプロジェクトリーダーは、本屋の荘田雅紹くんと北海点字図書館の後藤健市くんである。

96年9月24日に後藤くんが、面白い作家を見つけたので一緒に相模大野まで会いに行ってくれと言い出したのだ。「父は空 母は大地 アメリカインディアンからの手紙」というインディアンの酋長の言葉を寮さんが翻訳した本を読んで感動した後藤くんが、彼女にこのプロジェクトを委託したいのだと言うのだ。

一緒に会いに行ってすぐに寮さんの人柄に惚れ込んで、その場でお願いをした。96年11月28日には寮さんに十勝入りしてもらいプロジェクトが始動した。

このプロジェクトは北海道の先住民族アイヌの口承物語を絵本にして、子供たちにも環境問題を解り易く伝えようというものである。寮さんと地元の主婦の方々の協働によるアイヌ古老へのインタヴューが始まったのである。(つづく)


■2010-06-12-Saturday マイヒストリー10

十勝環境ラボラトリー(TKL)の

「十勝川水系調査プロジェクト」では、95年から親しくなっていた、私と同い年の然別湖ネイチャーセンターの崎野隆一郎という鹿児島出身の野生児に頼んで「熱気球」に乗って上空から鳥の目線で郷土を眺めようという活動も行った。

最初にテスト飛行で熱気球のフリーフライト(地上との間に綱を付けずに自由に風任せに空を飛ぶ)に乗ったのは96年4月22日であったが、私は大人になってからは高所恐怖症気味で、高いところはあまり得意ではない。熱気球も乗るのも最初はとても嫌だったが、プロジェクトの為なら仕方がないと諦めて乗ったのである。この時はまだ恐怖心の方が勝っていて、籠の外に顔を出しで見るような余裕はなかった。

2回目は97年4月4日に、今度も崎野氏のネイチャーセンターの手配で2基の気球で、フリーフライトで並んで飛んだのだが、これが最高の気分であった。2回目ともなると余裕が出てきて下の景色を眺めることができるようになったのだ。

高度も2000メートルにまで上がって日高山脈の向こう側(上川地方)まで見えたし、高度300メートルくらいで風にゆったりと流れていると、下でエゾシカや北キツネが走っているのが見えたりもした。

バルーン部分が風に流されるから籠に乗っていると風を感じないのだ。

着地する寸前がこれまた最高で、地上から20儖未旅發気里箸海蹐鯣に降りないようにあぜ道まで水平飛行するのだが、まるで魔法のじゅうたんに乗って横滑りしているような感覚になるのである。こんな素晴らしい乗り物はない。以来、すっかりはまってしまって毎年の様に乗っているが、私の家族はまだ一度も乗ったことがないのだ。いつも誘うのだが最初の私の様に嫌だと言って乗らないのである。実にモッタイナイ。

こんなに十勝の雄大さを感じさせてくれる乗り物は他にないと思うのだが・・・。

夏期間はカヌーで川下りして川の目線で郷土を眺めようというプロジェクトがあった。明治の開拓当初に道路が無かった十勝は、海沿いの町大津から十勝川を遡って内陸へと入植してきた。先人はまず十勝を川の目線で見たのだ。だからそれに倣って川の目線で見る十勝がどのように見えるか試そうというのである。

きっかけは96年7月28日の「十勝川いかだ下りレース」に参加したことであった。十勝川では毎年、夏になると「イカダ下りレース」が行われるが私はこれまで参加したことがなかった。一回やってみると川下りがすっかり面白くなってしまい、10月13日には崎野氏の然別湖ネイチャーセンターに頼んでカヌーを4隻出してもらい、私も8人乗りのゴムボートを買い込んで十勝川の上流の芽室町から十勝川温泉までの川下りをやったのである。

私は根っからのインドア派で、キャンプやカヌーなどは興味も無かったのである。

やってみると、これも面白くてすっかりはまってしまったのだった。

インドア派だった私が、この年97年からは、熱気球、カヌー、ボート、乗馬、犬橇、フリスビードッグなどすっかりアウトドア派になった年であった。

人間関係の面白さも味わった。1月に公開講座に招聘した石山修武早稲田大学教授がジャズサックス奏者の坂田明さんと友人関係だというのだ。坂田さんは当時、帯広の郊外に練習場の家を設けていて既にその時にはTKLとも交流があったのだが、その話をしたら、石山教授がそれなら是非会いたいと言い出した。その時には坂田さんは不在だったが、2月初旬には帯広入りするとのことなので、その時に坂田邸でアイヌの人たちと石山教授と私とで一緒に懇親会を行ったのであった。それが縁で坂田さんとも交流が深まり、坂田さんがプロディースするポロシリ音楽祭(7月20日)にも関わりを持つことになった。

また、話が前後するが、文化科学高等研究院のスポンサーの飛島建設が東京でやっていたプティミュゼという美術館の関係で、名嘉睦稔(なか ぼくねん)という後に「ガイアシンフォニー地球交響曲」にも出演することになる沖縄の画家と坂田明さんの共演が96年10月27日に実現し、招待を受けて観に行ってきたりもしてきた。TKLのお陰で人脈がどんどんと広がっていったのである。(つづく)


■2010-06-13-Sunday マイヒストリー11

1998年はいよいよ青年会議所(JC)を卒業する年になった。

私は1987年の入会だから12年間在籍したのである。

私は十勝環境ラボラトリーの仕事が忙しかったので、最後の年のJC活動はのんびりとやらせてもらおうと考えていて、役職は監事にでもなるつもりでいたが、JCをすでに卒業していたTKLの副会長のT氏が「坂本はアカデミー委員長をやれ!」と言うのだ。アカデミー委員会は新入会員を教育する委員会だから結構忙しくなるが、新入会員をTKLのメンバーに入れて活動を充実させろというご命令なのだ。

現在の90名以下という会員数が少ないJCなら考えられないことだろうが、当時のJCには170名以上の会員がいて、卒業までに委員長を経験することなく卒業するメンバーも居た。そんな中で在籍年数が長いとはいえ、委員長を3回〈都市環境(91)・国際環境大学構想推進特別(96)・アカデミー(98)〉も経験させてもらったのはありがたいことである。

97年の年末にはアカデミー委員会の副委員長とも打ち合わせをして計画を立てていたが、正月そうそうにその副委員長の一人が急死してしまったのだ。滑り出しから波乱続きの委員会運営であった。

氷まつりの雪の迷路造りをアカデミー委員会で造れという三役会の決定に抵抗したが、最後には副委員長3人が「なんとかするから引き受けましょう」と折れて引き受けることになった。

例年ならアカデミー委員会の新入会員が作業をするのだが、この年はアカデミーの所属はそれぞれの委員会に入ることになっており、昼間の作業に関われるのは委員長と3人の副委員長の合計4人しかいないのである。この4人でどうやって造れと言うのか?物理的にどう考えても無理な注文なのだ。

3人の副委員長は職業柄、ユンボやブルドーザーを操作できるが、私は全く出来ないから、戦力にはならない。しかも、TKLの公開講座の仕事も重なって、3人の副委員長には大変な苦労をかけることになってしまった。何とかかんとか氷まつりは終わったが、その後もアカデミー委員会の運営はあまり上手く出来なかった。史上最低のアカデミー委員長というありがたくない評価を受けることになったのだ。

98年のTKLの公開講座に招聘した講師は、1月:横倉恒雄(医師)、2月:山本哲士(信州大学教授)、3月:北矢行男(多摩大学教授)、3月:桜井淑敏(元ホンダF1総監督)、4月:小松弘(埼玉大学助教授)、5月:中野益男(帯広畜産大学教授)、6月:高垣主一(アートプロデューサー)、7月:小松義夫(写真家)、8月:倉田直道(都市建築研究所所長)、9月:村上康成(イラストレーター)、10月:橋爪紳也(京都精華大学助教授)、11月:夢枕獏(作家)、12月:秋山裕史(環境デザイン研究所長)と大学教授だけではない多彩な人たちであった。

4月1日には2年間掛けて調査・研究した「帯広中心市街TMO提言書」を発行し、砂川市長に提出し、商工会議所ではプレゼンまでおこなったが、まったく相手にしてもらえなかった。近年、この提言書が再び注目されているが、12年前にしてはコンパクトシティとかパーク&ライドとか電気自動車とか内要が少し早過ぎたのかもしれない。

しかし、98年4月3日から商工会議所と帯広市とで帯広市の中心街活性化のプロジェクトが始まって、私もそのメンバーに選出され参加することになった。帯広市としては、TMO(タウン・マネジメント・オーガナイゼーション)の指定を受けて、中心街活性化を進めたい意向であった。4月1日にTKLが発表した「帯広中心市街TMO提言書」が高い評価を受けたが採用されなかったことが影響している人選だったのだろう。

しかし、このことが後の「北の屋台」事業へと繋がっていくのであるから人生は不思議なものである。

「場所カープロジェクト」では電気自動車の実物を市民に見せようと、98年の平原まつりには、車をシャットアウトした平原通りにEV5とハイパーミニの2台を東京の日産本社から帯広に持ち込んで走らせたりもしたのだったが・・・。

このプロジェクトは日産側の都合で98年に突如休止になった。一緒に協働していた日産自動車の社員の方が、全員リストラされてしまった為である。

今日の、エコカーブームを見たら、まことにモッタイナイことをしたと思う。あのままこの事業が継続されていたら・・・。

知り合いのマジシャンから誘われて、11月11〜17日までアメリカのラスベガス・ロサンジェルスに行ってきた。

ラスベガスではマジックショーのはしご、ロサンジェルスでは、憧れの「マジックキャッスル」に行けたのである。まさにマジック漬けの海外旅行である。「マジックキャッスル」は完全会員制のマジッククラブで会員同半でなければ入場できないのだ。

高校生の時にテレビ番組でその存在を知ってから、ず〜っと行きたかったところなのである。ようやく夢が叶ってとても嬉しかった。(つづく)


■2010-06-14-Monday 今時の若者

13日夜のテレビ番組で

今時の若者の気質とバブルを経験した世代との比較を特集していた。

最近の若い世代は「モノを買わなくなっている」という。

我が家の3人の子供たちを見ても、3人とも皆そうなので、実は、親である私が浪費家だからその反動でこんな子供に育ったのではないかとズ〜ッと心配していたのだが、この番組を見て少しは安心したというか・・・。

このテレビ番組が指摘していたが、確かに、現代の20歳より若い世代の若者は「バブル景気(1991年2月に終息)」を経験していない。というよりも好景気というものを経験していないのだ。

ウ〜ン、育った年代によってこうも異なるものなのか!

私の生まれた昭和33年(1958)は高度経済成長のど真ん中であったから、周りの家庭が、やれテレビだ家だ車だと、ドンドンと豊かになっていったのを肌で感じて育った世代である。

途中に「ニクソンショック(1971)」や「オイルショック(1973・1979)」などの不況もあるにはあったが、その時にはまだ学生だったから不景気を直に感じたことは無かったし、すぐに盛り返したように思う。生まれてから33年間は概ね右肩上がりの経済成長であった。

私はバブル景気全盛の時には、バブルに踊った連中を「なんて馬鹿な奴等だ」と冷めた目で見ていた。この時、私は既に商売を始めていたが、こんな異常な状態が長続きするはずがないと感じていたから、一切の投機はしなかったのだ。

投機はしなかったといっても、投資はいくらかしたから、損失がまったくゼロというわけではないが、被害はほとんど無かったといってもよいくらいだ。

1991年のバブル崩壊から日本の経済は19年間も横ばいが続いているから、平成生まれは好景気というものを知らない世代であるわけだ。

今時の若者は、高級ブランド品や自動車には興味が無く。服装はユニクロで十分とのこと、生まれた時から、テレビ・冷蔵庫・クーラー・自動車が揃っていた世代は、我々の様に段々と豊かになっていくという体験をしていない。

生まれた時から全てのモノが揃っているのだから、モノを買い揃える買い物の楽しみというものが欠落しているのだろう。

お金自体を使いたくないという心理は、政治の貧困により、日本の将来に不安を感じているから、自分で自分を守る為に貯金をしておくという傾向なのだろうとも感じた。

テレビのインタビューで若者が答えていた「お金を掛けなければ遊べないという世代は・・・」というのは、これはこれで、成熟した社会になったと言えなくもない。

30年ほど前にヨーロッパに行った時に感じたヨーロッパ人の気質に、日本人の若者が似てきたなぁと感じたのである。

かつての日本人のお金の使い方を、現在の中国人がやっているようにも感じる。

これからの商売はモノを売りつける商売ではなく。職は有るが少ない給料で働き、少ない消費でも満足する生活を送れることをサポートすることが商売になるのだろうと思う。

きっと、日本の社会が大きく変わる変革期なのだろう。江戸時代のような社会になるのかもしれないなぁ。

そう考えると、私達の世代は変化の多い、ジェットコースターのような実に面白い社会を生きてきたことになるのだなぁ。


■2010-06-15-Tuesday サッカーWカップ

日本がカメルーンに、

1対0で勝った!

昨日の夜にテレビ観戦したが、カメルーンには負けると思っていたから前半だけ見てすぐに寝ようと思っていたのだ。

それが、前半に得点してリードしてしまったものだから、最後まで見なければ寝むるに寝むられなくなってしまったのである。

日本のシュート数はゲーム全体でも2〜3本程度だったのではないだろうか?

その内の1本が実に絶妙なタイミングで決まったのだから国際試合は判らないものだ。

カメルーンもチーム内の不協和音があったりして主力選手が出場していないということもあったらしいが、日本が良く守りに守った試合である。特に後半の残り20分あたりからの、カメルーンの怒涛のパワーゲームには冷や冷やした。よく凌いだものだ。

岡田監督も何だかんだと言われながらも、格上チームに勝ったのだから、まぁ良い監督とするべきだろう。どうも、岡田監督は容姿で損をしているタイプだなぁ。

この日の第一試合で、オランダがデンマークに2対0で勝っている。

これでE組の私の予想は、オランダ3勝、日本1勝1敗1分け、デンマーク1勝1敗1分け、カメルーン3敗となった。

まぁ、日本はオランダには勝てないだろうから、いかに失点数を少なくするかだろうし、デンマークには勝てないまでも引き分けなら、得失点差で日本が決勝に行けるかもしれないという希望が出てきた。

でも、勢いに乗ってデンマークにも勝ったりして・・・。

カメルーンがデンマークと引き分けるか勝ってくれたりしたら、もっと日本が優位になるのだがなぁ。

こうなると、カメルーンの今後の活躍を期待したくなるね!

これでようやくWカップが面白くなってきた。


■2010-06-16-Wednesday 大相撲

大相撲力士の野球賭博問題が騒がしい。

先月20日発売の、大関琴光喜関が野球賭博に関係しているという週刊誌の報道がキッカケであったが、その時には関与を否定していた琴光喜が昨日になって認めたという。

自分から関与を認めて自主申告してきたら、厳重注意処分に罪を軽くしてやるぞという相撲協会の方針に、締切近くになって力士側が65名という大勢が名乗り出たことから発覚したようだ。

賭けのひとつやふたつ、どうってことないさとばかりの態度である。

仲間同士の軽い賭けならともかく、暴力団が資金稼ぎにやっている賭博に参加するというのは、やはりまずいことだろう。

琴光喜はこの野球賭博で何百万円も儲けて、勝ち金の支払いを求めたところを、逆に暴力団関係者から賭博をやっていることをバラされたくなかったら1億円を払えと脅されたらしい。

私は、芸人や力士に品行方正な善人な態度を求めるのが間違っていると思うのだが・・・。

相撲取りは昔から、タニマチというスポンサーがいて、ゴッツアン体質が身に染み付いているのだし、一般社会の決まり事とは別世界のはずだと思うのだ。それを、何でもかんでも一般社会の規範と同じに窮屈にしてしまうのは如何なものだろうか?

相撲が国技と言ったって、もはや幕内力士の上位は皆、外国人ばかりになってしまっている。確かに品格は無いよりも有った方が良いに決まっているが・・・。

藤山寛美や横山やすしや勝新太郎みたいなハチャメチャな芸人の方が芸が面白い。芸能人が真面目な奴ばかりだったら、とてもつまらない世界になってしまうと感じている。

相撲協会も儲かっているんだから、ここで開き直って、文部科学省に公益法人格を返上して、監督官庁なんてしゃらくせいと、もっと自由にやった方が良いのではないのか?

かつて横綱や大関だった親方達が、文部科学省の役人にペコペコ頭を下げている姿は実にかっこ悪い。

型破りな人間がいる世界が、芸能界であり、相撲界なのだと思うのである。どうも世間が、世界を矮小化させているように感じる。

こんなに堅苦しい世の中にしてしまったら、ますますつまらない。

別世界を認める寛容さが欲しいものである。


■2010-06-17-Thursday すごい確率!

昨日のゴルフコンペでの出来事である。

確率から言ったら、何億分の1、いやひょっとすると何兆分の1の確率かもしれない稀な出来事である。

私の打ったティーショットが左に曲がって林の中に入り、キンコンカンと3回木に当たった音がした。

入っていった場所と思しきところに、キャディさんと私とで分け入り、ボールを探していたら、キャディさんがボールを見つけてくれた。

私はキャディさんから離れた場所でボールを探して居たので「ボールを確認して!」と叫んだら「SRIXONの4番で坂本さんのボールです」と言う。

私も近づいてボールを確認したら私の使っている「SRIXONの4番」という字が見えたので間違いないと思い、林の横に脱出させたら・・・。

なんと、その脱出させた近くのラフにもう1個ボールがあったのである。

キャディさんがそのボールを見て「アラッこのボールもSRIXONの4番だわ」と恐ろしいことを言うのだ。

状況から判断すると、後から見つけたそのボールが私のボールであろうと思われた。それにそのボールには見覚えのある傷が付いている。

私のボールは林の中に入ったのではなく、木に当たって跳ね返り、フェアウェーのラフにあったのである。

何と、誰か別のパーティの人が見つけられずにロストボールにして置き去りにしていったボールが、たまたま私の使っているボールと全く同じ会社の、同じ種類の、同じ番号のボールだったのだ。

こんなことってあるのだろうか?

コンペだから同伴競技者に裁定を求めたが「どちらが自分のボールだか明確に判断が付かないのなら、坂本さんが自分のボールだと思う方でプレーするしかないと思うよ」と言う。もっともな裁定だと私も思った。

ラフにあったボールは、ボールを見失うほどの深いラフではないから、状況からすると私が林の中から打ち出したボールの方が、私のボールではないだろうことは明らかだ。

それに後から見つけたラフにあったボールには見覚えのある傷がある。これでは誤球と判断して後から見つけたボールでプレーするしかないだろう。

まぁ、スコアも悪くて、とても賞に入るような成績ではないし、これが優勝を争っているようなスコアだったらと思うとゾッとする。

でも、これはすごい確率の出来事である。

もう26年もゴルフをやっているが、そもそも誤球なんてこれまでに3回ほどしかしたことがないし、その内の2回はバンカー内で、誤球が認められている状況でだ。

いつも種類や番号を確認してから打つようにしているから誤球するはずがないと思っていた。

今回のは、しっかりと確認した上でのプレーなのに、誰か知らない人のロストボールと、私の使用球が全く同じボールなんてことがあるとは、とても信じられない出来事だ。

これだけ広いゴルフ場なのに・・・、この日はドライバーが好調でこのホール以外はフェアウェーを外さなかったのに・・・、たまたまこの日1回だけドライバーをひっかけて林の中に打ち込んでしまい、たまたまそこにあったロストボールが、たまたま私の使用球と全く同じメーカー、種類、番号のボールだったなんて・・・。

確率的に計算したらどうなるのだろうか?

まず、ボールを見つけられずにロストボールにしてその場を立ち去る確率は?

ボールのメーカーの数は何社あるのか?

ボールのブランド数は?

ボールに刻印してある番号は何種類?

そのホールで林の中に打ち込む確率は?

ここまで考えただけでも天文学的数字になるだろうと思う。

果たしてこれは、運が良いのか?悪いのか?一体どっちなんだろう。


■2010-06-18-Friday マイヒストリー12

98年はいよいよ青年会議所(JC)を卒業する年だ。

12月の卒業が近づくとロータリークラブやライオンズクラブから入会の誘いが頻繁に来るようになった。

帯広JCのメンバーは卒業するとロータリークラブに入会する人が多い。私の同輩たちもロータリークラブに入会したメンバーが多くいた。

私は父が帯広ライオンズクラブに入会していたこともあって、ライオンズクラブからも執拗に入会勧誘を受けたが、どちらの会にも入会するつもりがまったくなかった。

その理由の第一は、そもそも群れることがあまり好きな性質ではないことがあげられる。私が「北の屋台」辞めた時に、私を評して「坂本は協調性が無いから・・・」というコメントを新聞にしていたご仁がいたが、確かに「協調性」は欠如しているかもしれない。自分でもかなりへそ曲がりな性格なのだと感じている。

しかし、逆説的に言えば、私に協調性が無いからこそ北の屋台は誕生したのだと思う。

北の屋台を造るときに、99年から「まちづくり・ひとづくり交流会」という任意団体を立ち上げて活動していたが、その仲間内でさえ、(最初は屋台で盛り上がっていたが、途中から法律の壁、意識の壁に阻まれて屋台は出来ないと諦めムードが支配した)北の屋台が成功すると思っていた人間は皆無だったであろう。あの時、皆の意見に流されて屋台を諦らめていたら、成立する前に北の屋台は消滅していたことであろう。

他人がダメだ、無理だ!と言うものに対して、何くそ!と、違う角度からチャレンジする私のへそ曲がりな性格が北の屋台を生み出したのだと自負している。

この部分は後日詳細に書くことにして。

第二の理由は、ロータリークラブやライオンズクラブでは「まちづくり」は出来ないと考えたからだ。この当時は「十勝環境ラボラトリー(TKL)」に、お金も時間も掛っていたし、内容も充実していたから、それ以外の余分な活動をしている余裕がなかったということもあったのだ。

後日談だが、TKLにお金を拠出してくれている副会長の父親から、私に「この詐欺師野郎!息子から金を引き出して、何をくだらないことをやっているんだ!おまえは一体いくら金を出しているんだ!人様の金よりもまず自分の金を使え!」と電話が入ったことがある。私が「貴方の息子さんがTKLに出して下さっているお金の6倍以上の金額を私は出していますし、毎日、自分の時間も使って活動しています。」と答えたことがあったが、そもそも、TKLは私が積極的にやろうと言い出したものではなかったのだ。

最初はこの副会長等がやろうと言い出したことなのである。私は国際環境大学構想プロジェクトの担当副理事長だったこと、ビル賃貸管理業という仕事柄、ビルのテナントが埋まっている時には暇だろうということ、私の坂本ビル内にTKLの事務所を置くことになったことなどの経緯から事務局長に就任することになったのである。自分から強く望んで始めたわけではなかったのだ。

しかし、現在となってはTKLの事務局長をやれたことに心から感謝している。

TKLの活動をしたことで以後の私の人生はとても充実したものになっていくからだ。

ロータリーやライオンズで新入会員としてその他大勢で活動するよりも、TKLの中心で活動している方が遥かにやりがいもあるし、面白くて、楽しかったのだ。

JCを卒業してからのTKLの活動は、それほど充実していたのである。(つづく)


■2010-06-19-Saturday マイヒストリー13

1999年からは「北の屋台」の活動が始まる。

「北の屋台」に関しては拙著「北の屋台読本」(2001年7月29日メタブレーン社発刊)「北の屋台繁盛記」(2005年7月29日メタブレーン社発刊)に詳しく書いているのでそちらを参照願いたい。このブログには一般に販売した両著書に書けなかったことを中心に書くことにする。

98年に商工会議所と帯広市の肝いりで始まった「TMO」事業であるが、会議がまるで進展しない。そもそも開催された回数が少ないのだから当たり前と言ったら、当たり前であるが・・・。

この種の会議は、招集した側の説明にやたらと時間が費やされ、20数名の委員を選んでいるから1回の会議での発言時間は一人3分間も回ってこないのだ。

一通り一回でも発言させたらガス抜きになるとでも考えているのだろうか。

この種の会議は、いわゆる、「一般人からの意見も聞きましたよ」というアリバイ作りの会議である場合が多い。

コンサルタントも札幌の業者であるし、学者も十勝の人間ではなかった。

確かにコンサルタントは全国各地の事例を沢山知っているだろうし、帯広の大学教授はまちづくりに関しては専門外ではある。

しかし、これまでの帯広市では、高いお金を払って、コンサルタント会社に委託しても、出て来たプランで実行に移されたものなど何一つもないではないか。

各地の事例をつぎはぎして、タイトルに帯広の字を入れたような類のプランが実際に使えるはずがない。

そもそも、1カ月程度だけその土地に居て調査したのみで、帯広・十勝のことなど解るはずがない!

これまでのコンサルタントが造ったプランには「積雪・寒冷地」という十勝の特性に対する考慮が何一つないのだ。夏の暖かい時期に調査しただけでプランを作成するからそういうこと(雪の降らない地域の計画をそのまま導入する)になるのだ。そんなプランに何千万円も払うことの馬鹿馬鹿しさにもうそろそろ気付いて欲しいものだ。

私たちは生まれてこのかた十勝に暮らし、十勝の事を肌で理解している。そしてなにより十勝が良くなってくれなければ自分たちの生活自体が危うくなるのだから、それこそ真剣に考えるのだ。

が、その地域に暮らす人間だけが造ったプランには抜けている観点があるかもしれない。だから、それを補う為にTKLでは学者と組んでプランを造ったのである。

よくいう街づくりには「若者・馬鹿者(情熱的な人の意)・余所者」の3種類の人間が必要だと言われる所以である。

TKLが作成した「TMO提言書」は帯広市や商工会議所からは一銭のお金だってもらったわけではない。十勝を愛する人間の集まりであるTKLが2年間掛けて調査・研究した「TMO提言書」は、6月3日に商工会議所で商店街の役員にプレゼンした後、あっさりと、私が見ている目の前でゴミ箱捨てられるという扱いを受けたのだった。

新たに帯広市が立ち上げた「TMO」だったが何も進まない状況に、次第に委員の不満が募っていった。(つづく)


■2010-06-20-Sunday マイヒストリー14

98年に帯広市が立ち上げた「TMO」の委員会に、

「十勝環境ラボラトリー(TKL)」からは私一人だけが参加していた。

「TMO」の会議の主題は「イトーヨーカドー跡の利活用」と「シネマコンプレックスの新設」の2点であった。「イトーヨーカドー跡」はこの98年11月の稲田地区への移転以来、2010年の今日に至るも閉められたままであるのだから、この12年間何ら具体的な活動が無かったことの証左であろう。

一方の「シネマコンプレックス」は、現在、駅北に「パチンコ太陽グループ」のシネマコンプレックスが営業しているから、一見するとTMO事業が成功したかのように見えるが、この時の「シネマコンプレックス」は地元の「いせき興業」の映画館をまとめてシネマコンプレックスを造るという計画で進んでいたのだ。

それが結局は「いせき」側が採算が合わないからとシネコン建設を諦めてしまい、逆に映画館を4館を廃業してしまった。この時のいきさつで、当時、札幌から帯広に進出して営業していた映画館の「スガイグループ」の2館も、シネマコンプレックスが出来たら営業上対抗出来ないからと既に廃業していたから、帯広市から映画館が無くなってしまうという文化面での危機的状況にまでなりかけたのだ。

結局は函館でパチンコ屋とシネコンを合わせて営業していた「太陽グループ」が進出してきて、帯広市から映画館が無くなるという事態は何とか回避されたが、この太陽グループのシネコンは「TMO」事業とはまったく無関係の単独の進出ということなのである。

つまり帯広市の「TMO」はまったく機能していなかったのだ。

一向に進展しない状況に苛立ってきた委員を、1999年2月24日にTKLの事務所に集めて会議を開いたことがキッカケになって「まちづくり・ひとづくり交流会」が誕生することになる。

TKLは青年会議所(JC)を中心とした異業種のメンバー構成であるが、主婦層や農家などの人材がいない。TKLの活動をする内に知り合った主婦や農家にも声を掛けて、TKLよりも幅広い人材を集めて、帯広の「まちづくり」を自分たちの資金と行動力で行おうとしたのである。

いくら素晴らしい「提言書」を作成しても、為政者や執行者が認めてくれなければ日の目を見ないということが嫌というほど判ったからである。

青年会議所時代に作った「国際環境大学構想」しかり、TKLで作った「TMO提言書」しかりである。

この時に、まちづくりの指導を仰いでいた大学教授から「全国各地のまちづくり活動を見てきて、その失敗例の最たるものは、危機感を持つあまりに先走って、理念や目標を定めない内に行動を起こしてしまうことだ。」「理念や目標なき活動は必ず途中で空中分解してしまう。」「まずは焦らずにメンバーの共通認識を持つことから始めた方が良い。」とのありがたいアドバイスをもらったのだ。

共通認識を持つ為に何をしたら良いかを考えた末に、まずは皆で帯広の歴史の勉強をしてみようと思ったのである。

これが成功した。

本州の場所の歴史の勉強なら、1400年前の奈良時代とかから始めなければならないだろうから時間も掛るだろうが、帯広の開拓の歴史は、たかだか120年程度でしかないから、たった4回の勉強会で終了したのだ。このスピード感が良かったのだと思う。あまり勉強ばかりしていると飽きてしまうからだ。

また、この時にメディアに情報公開する作戦を立てた。会議に参加出来ない人にも新聞等を通じて、我々の志を知ってもらおうという作戦だ。これも実に上手く運んだ。私の手元に「北の屋台新聞掲載記事資料 1999年2月25日〜2002年5月15日」という新聞の切り抜きを一冊の本にまとめた資料があるが、何とこの本のページ数は372ページもあるのだ。3年3カ月の間に、「北の屋台」の活動が新聞に載ったのが372回以上もあったということだから、つまり3日に1度は新聞で取り上げてもらったことになる訳だ。(つづく)


■2010-06-21-Monday 駒澤大学同窓会

駒澤大学同窓会の

全国支部長会議が18日(金)に東京グランドホテルで開催され、私も北海道十勝支部会長として出席してきた。

8年ほど前に一度、宇佐美前会長の代理として出席したことがあったが、支部長として出席するのは今回が初めてである。

同窓会支部は北海道から沖縄まで、台湾支部まで含めると56支部があり、北海道は広いので8つの支部がある。

13:00〜15:30まで真面目な会議が進行され、15:45からは懇親会が開催された。

会議の席上、とある地域の新任支部長がトンチンカンな質問をして顰蹙をかう場面があったが、この支部長はメゲナイご仁で、その後も再度トンチンカンな意見を述べて更に顰蹙をかっていた。

空気がまったく読めないのと会議の内容をこれまたまったく理解していないのと、更には下手くそな話で延々とやるものだから、議長も困っていた。どこにもこういう迷惑な人物が居るものだ。

このご仁、懇親会の席でも、大顰蹙をかっていた。余興の時間になって駒大出身の歌手黒木悦子さんのステージが始まり3曲歌を披露したが、黒木さんの歌が終わったら、カラオケ大会だとでも勘違いしたのか、次は俺だ!と勝手にステージに上がって、アカペラで歌を歌い始めたのだ。空気が読めない困りもののおっちゃんである。

この日の支部長会議には、次の参議院選挙に立候補する2人の駒大の同窓生が参加していた。

一人は東京支部長でもある中畑清である。彼は選挙で忙しいこの時期にもキチンと支部長会議に出席して議事に参加していたから真面目さは評価しよう。この日は18:00〜都内の他のホテルで自身のパティがあるからと支部長会議が終了したら、一言だけ挨拶してすぐに立ち去ったので、好感が持てた。

他の支部長の中にも、中畑清を積極的に応援している人たちが大勢いて、彼等もそちらのパーティに中抜けして出席をしていたようだ。

もう一人の候補者はパーティの間中、名刺を配って歩き、途中に挨拶の為に壇上に上がったが、これまた空気の読めないご仁で10分以上も演説をした。これでは逆効果である。

こういう場合の挨拶はいかに短時間で自分の意見を要約して伝えることができるかだと思うのだが・・・。

同窓会長の挨拶の中で、駒大出身の国会議員はまだいないとのことを言っていた。今の世の中、同窓生が国会議員でも別段嬉しいという感情は湧かないが、他の人たちにしてみれば、国会に同窓生を送り出したいのだろう。

26日に十勝支部の総会を控えているが、十勝という場所は選挙では実に複雑な地域にあると思うので、同窓会支部として誰それを応援しましょうなどということはできないと思っている。

選挙に熱くなっている人からは同窓生が立候補するというのに冷たい態度だと非難されるかもしれないが・・・、ただ、同窓生の誰それが参議院選挙に立候補しましたという紹介にとどめることしかできないだろう。

26日の十勝支部の総会には、昨年の10周年記念の駒大寄席で招聘した駒大同窓の落語家、三遊亭王楽師匠(昨年暮れに真打ちに昇進した、故五代目三遊亭円楽の最後の弟子で、笑点にでている好楽の息子)を招いて無料の落語会を行う。一般参加もOKなので、このブログを読んでいる駒大出身以外の方も参加可能ですよ。


■2010-06-22-Tuesday 駒大マジック同好会

19日には駒大のマジッククラブの同窓会が開催された。

今年で4年連続4回目の開催である。

当初の予定では1週間前の12日に開催する予定であったが、一番遠方から参加する私が、18日に同じ駒大同窓会の全国支部長会議があってそれに参加するので、北海道から2週続けて上京するのは酷との配慮で日程を1週間ズラしてもらったのである。

これまでの前3回の開催地はすべて新宿であったが、今回は私の希望で三軒茶屋での開催にしてもらった。

大学を昭和55(1980)年に卒業して以来、大学近辺や下宿していた三軒茶屋付近に出掛ける用事が無くてこの30年間一度も行っていないから、この同窓会を機に久し振りに見てみようと思ったのである。

前日の同窓会支部長会議の終了後に、同じ法律学科を卒業し、同じアパートに住んでいた鈴木宏保君と大崎の天麩羅屋さんに行って飲んだ。彼は現在東京に単身赴任中で、私が上京する際には、彼を呼び出して一緒に酒を飲む仲なのである。

駒大や三軒茶屋を散策したいメンバーは12:00に駒澤大学の正門前に集合して一緒に廻りましょうとブログで呼び掛けていたのだが、鈴木君がもっと色々な所にも行きたいというので、それなら2人で11:00に集合して他の場所を見てから、12:00に正門に戻ろうということになった。

2人で飲んでいる最中に愛知県の河合先輩から11:30になら行けると言う電話が入り、ホテルに戻ったところに千葉の後輩伊藤君から11:00には行けますという電話が入ったのでとりあえず4人で廻ることになった。

梅雨時真っ最中に日程が変更になったし、長期予報では当日は雨模様の予想であったが、私はかなり強力な「晴れ男」であるから大丈夫だと確信していた。当日は雨どころか快晴で、暑くて暑くて汗だくになってしまったくらいであった。

私と鈴木君と伊藤君の3人は同じ地下鉄の車両に乗り合わせたので、愛知県の河合先輩が合流する11:30まで3人で歩き回ることにした。

地下鉄の駒澤大学駅を降りて、地上に出、国道246号に沿って歩くと風景が30年前とまるで違っている。

大学正門の北側にあった三菱重工の社宅が立派になっていたのにはビックリした。駒沢公園の木々も成長していて素晴らしい雰囲気になっている。

大学と公園の間にあった蕎麦屋がなくなっていたが、喫茶店はそのまま残っていて嬉しくなった。

まずは新しくできた深沢キャンパスを見に行った。ここは我々が学生だった頃は三越があった場所を駒大が購入してキャンパスに変えた場所だ。キャンパスが新しく建てられ雰囲気がすっかり変わっていた。日本館という和風の建物を見学しようと思ったが鍵が掛かっていて入ることはできなかった。

大学に戻り、河合先輩とも合流して、懐かしいから学生食堂で食事しようかとなって学食に行ったが、あまり食べたいものがなかったので止めて、三軒茶屋に行くことにしたら、後輩の女子(今はおばさん)が3人来た。彼女等はこれから大学を見るというので、どのみちすぐ後には合流するのだからと別々に行動することにして、我々男4人組は三軒茶屋に行った。

三軒茶屋にはキャロットタワーという高層ビルが建っていてすっかり様変わりしている。まずは鈴木君と一緒に入っていたアパートを訪ねたら、アパートの名称は当時と同じままであったから持主は変わっていないのだろうが、建物は当たり前だが綺麗に建て替えられていた。そのアパートの前で鈴木君と記念写真を撮って、昔通った銭湯に行くとこれまた立派なマンションに建て替えられていたが、でも1階では依然として銭湯を営業していた。

4人で懐かしぃ〜なぁ〜を連発しながら、一番最初に下宿していた下馬の方まで足を伸ばしてまた三軒茶屋に戻り同窓会の会場を確認して太子堂方面に向かう。

14:00からイタリアンレストランを貸し切って19名の参加で駒澤大学手品奇術同好会の同窓会が開催された。同じ年の田中君が学生時代のマネージャー業務そのままに準備や手配を完璧にこなしてくれるので実にありがたい。彼がいなければこの同窓会は開催できないだろう。

皆50歳以上の年齢であるが、この時ばかりは20歳前後の学生時代に逆戻りできる。いや、実は20歳から精神年齢がストップしているのかもしれない。自分達の子供らが今丁度、大学生だというのに・・・。

二次会でカラオケ館に行ったが誰一人歌を歌わないで話し込んでいる。4年連続で開催しているのに昔話のネタは尽きないようである。

18:00に解散して、6人で故ジミー忍師の奥さんのマコママがやっている千歳船橋の「魔法の小箱」という店に行くことになった。

三軒茶屋から出ているチンチン電車に乗って行きたいと思いルートを調べたら、三軒茶屋駅(チンチン電車12分)→山下駅(徒歩2分)→豪徳寺駅(小田急線5分)→千歳船橋駅というルートで行ける。これはその昔、力書房(祖師谷大蔵)というマジックの会社に行く時に使用していたルートだ。電車は新しい車両に替ったが、沿線の雰囲気はあまり変わっていなかったので懐かしい気分である。

魔法の小箱でもひとしきり懐かしい昔話に花を咲かせて、22:30にはお開きにして浜松町のグランドホテルに戻った。

途中の電車は、丁度Wカップのオランダー日本戦が終了した直後だったので人が多くて座れなかった。特に渋谷の駅前はスゴイ人混みで警察官も大勢出て大変な喧騒であった。


■2010-06-23-Wednesday キャンディード

20日は娘と帝国劇場で上演中のミュージカル

「キャンディード」を観てきた。

私はもともと、ミュージカルや演劇や寄席が大好きで学生時代からお金と暇さえあれば(学生時代はお金が無くて暇ばかりだったが・・・)観に行っていたものだ。やはり生のものは臨場感が素晴らしい。

次女も私の血を引いたらしく、高校生の時に演劇に目覚めて、函館市の市民劇にオーデションを受けて出演したりもしたのだ。

以来、ステージ上でスポットライトを浴びる快感を覚えてしまったようで、未だにチャンスがあればそういう道に進みたいとの希望を持っているようなのだ。

私も一人で観るよりも何人かと一緒に観た方が話題が共有できるので、なるべく上京する際には娘と一緒に観るようにしている。

今回の「キャンディード」には、私のマジックの師匠である故ジミー忍師の長男の駒田一さんが出演しているので、奥さんのマコママに連絡して一さん経由でチケットを手配してもらったのである。

出演者に手配してもらうととても良い席を取ってくれるのでありがたいのだが、今回はお願いしたのが直前だったのと、人気がある演目なのでチケットがなかなか取れなくて、2階席2列目の中央の席を取ってくれたのだった。

2階席で観るのは初めてであったが、2階席もなかなか良いものであった。いつもは一階席の前の方の席なので、舞台上の凝った小道具や仕掛けなどが見ずらいのだが、今回はバッチリ良いアングルから観ることが出来たのである。

とくにこのキャンディードの演出は、舞台そのものや小道具の使い方が変わっていたので特に面白く観ることができた。むしろ1階席で観るよりも2階席で観る方がこのミュージカルには合っているのかもしれない。

駒田一さんはカカンボ役で出演しているが、彼はミュージカル俳優としては準主役級で色々な作品に出まくっている感じだ。知り合いにこういう人が居るのは嬉しいことである。

今回のキャンディードはジョン・ケアード版の演出ものでヴォルテール原作の小説にレナード・バーンスタインが曲を付けたミュージカルである。

物語はそんな都合の良いことが・・・というハチャメチャな感じだったが、展開が速くて、ユーモアもたっぷりで演出にもマジックの要素があったりして斬新で面白かった。

終演後にマコママと娘と一緒に楽屋を訪ねた。楽屋入口にすでにファンの人達が列を作って待っているが、こちらはマコママの顔パスで、駒田一の身内ということで、名前の記帳をすることもなくス〜ッと入って行けるのだ。この楽屋を訪ねるという行為がなかなか優越感が感じられてよいのである。

一さんは次のミュージカルの練習があるので忙しかったが、娘も以前に楽屋を訪ねたことがあったので、顔を覚えておいてくれて、一緒に写真を撮ったりもした。楽屋にはその他にも有名な俳優がいるから時間があったらサインでもネダルところなのだが・・・。

こちらも帰りの飛行機の時間が迫っているのでのんびりはできない。ここが辛いところである。

今回の上京は楽しいことばかりであった。

晴れ男の面目を保って暑過ぎるくらいの天気であったが、東京は遊びに行くところで暮らすところではないとつくづく感じたのであった。


■2010-06-24-Thursday マイヒストリー15

99年2月24日に第一回目の会合を持った

「まちづくり・ひとづくり交流会」であるが、司会進行を私が務め、この会独自のルールを定めた。

構成員の出入りは自由:入会したければいつでもOKだし、辞めたければいつ辞めても

OK。

30分ルール:会議に初めて参加する人は、会議開始の30分前に来ること、私がこの30分間でそれまでの会議の流れを説明することで、会議に溶け込め易いようにした。

(私自身も、会議の流れを再確認できるので進行がスムーズになる利点がある。)

発言ルール:他人の意見の否定はしないで、自分の意見のみを述べること。最低一回は発言をすること。

友人勧誘ルール:毎回別の人間を一人は連れてくること。

というルールを作ったのである。

実際に,離襦璽襪砲茲辰匿鑛と多くの人間の出入りがあって、最終的にメンバーが確定するのは99年の11月になってからであった。

毎回、全員に発言させるし、人が入れ替わるから、会議はなかなか前に進まないという問題もあったが、△裡械以ルールによって会議は毎回活発な意見交換があったのである。

4回におよぶ帯広市の歴史の勉強会がとても良い結果を導いてくれた。

最初は「中心市街地なんて必要ない」と言い切っていた若者たちが、勉強会を重ねて帯広の中心街が交通機関の変遷と共に移動してきたこと、現在は中心街が消滅の危機にあること、帯広のアイデンティティーは何かということなどを、真剣に考えるようになったからだ。

この4回の帯広市の歴史勉強会で「自分たちの資金と行動力で、帯広市の中心街を活性化させよう」という共通認識が生まれたのである。

2月、3月の4回の勉強会が終了し、4月になって「まちづくり・ひとづくり交流会」では、メンバー全員が同じ金額の資金を出し合って活動原資にしようということになった。誰かが大きな金額を出すことも可能ではあったのだが、それでは依存型のまちづくりと大差がないからということである。

メンバーに帯広畜産大学の学生が一人いたので、その学生が出せる金額に合わせることになった。彼は1万円が限度だというので、40名のメンバー×1万円=40万円が原資になる。この40万円で出来る活動にはどんなものが考えられるかディスカッションした中で、メンバーのひとり後藤健市君が「屋台」でまちづくりをしようと提案し、メンバーは盛り上がっていた。が、私は最初、屋台には懐疑的であったのだ。

当時私は、屋台に対して「廃材を利用して作った小汚い飲食のもの」というイメージが頭にこびりついていたのである。屋台のような小汚いものを並べたところで街が活性化するとは到底思えなかったのだ。ところが、メンバー皆が屋台は面白そうだと言うのである。

他人の意見を否定してはいけないというルールを自分で作った以上は、皆が屋台で盛り上がっているのに、屋台はダメだなんてとても言えなかったのである。

仕方なく、図書館に出向いて屋台のことを調べようと思ったのだが、図書館には屋台のことについて書かれている本が無かった。インターネットで検索しても、博多の屋台の宣伝のようなものしか出てこない。資料が無いなら自分たちで資料を作ってしまえば良いということになった。

海外旅行に行った際に屋台の様なものを見かけたら、バンバン写真を撮って来い。そしてその状況を皆に報告しろということにしたのである。

そんなおりに、まず私が6月21〜28日まで帯広商工会議所の議員の視察旅行でアメリカのシアトル・ポートランド・ロサンジェルス・ラスベガスに行った。

アメリカには屋台なんてないだろうと思って行ったのだが、行く先々の街でたくさんの屋台を見かけ、そのどれもが賑わいを持っていた。

私はアメリカに行く前には、屋台は「飲食」のものと思い込んでいたのだが、アメリカの屋台には「飲食」「物販」「パフォーマンス」の3種類があることが判った。

花屋などの屋台が街角に彩りを与えるし、商店街では広過ぎる道に屋台を並べて狭く演出するという方法があることも判ったし、学生に屋台を安く貸し出して、商売のインキュベーターの役割を果たしていることも判ったのだ。私はこの時に屋台の写真を120枚ほども写して来た。

この6月のアメリカ視察旅行で私はすっかり屋台推進派に変貌するのである。

アメリカから戻って来て、すぐに屋台を使ったまちづくりのプランを考えた。屋台の写真集を作成し、「まちづくり・ひとづくり交流会」は屋台でおおいに盛り上がっていった。

この活動内容が新聞でも紹介されたことで、7月になって、この活動を耳にした北海道通商産業局(現:経済産業局)の役人がTMOの件で帯広入りするに際して、オブザーバーとして会議に出席したいと言ってきた。

この役人が「屋台を使ったまちづくりプラン」という小冊子と「アメリカの屋台写真集」が欲しいと一冊ずつ持ち帰り、7月末に私のところに電話をしてきた。「東京の全国中小企業団体中央会に話を通しておいたから連絡を入れるように」と言うのだ。

電話してみると、担当者が電話では話が伝わりにくいから、直接話がしたいので上京して欲しいと言う。8月2日に私が上京して事務所を訪ねると「貴方たちの活動はとても興味深い、8月下旬締め切りの補助金があるから、応募しないか?」というのである。条件等を聞くと1000万円の活動資金の内の600万円が補助金で400万円は自己資金で賄わなければならないし、「まちづくり・ひとづくり交流会」は任意団体だから補助金を受けられない。然るべき法人格を持った団体に受け皿になってもらって、その構成員として活動するならば可能とのことである。即決はできないから帯広に戻って皆と相談して返答することにして一応、応募方法等の詳細を聞いて戻ったのである。(つづく)


■2010-06-25-Friday 1億円以上

金融庁が作った新ルールによって

1億円以上の報酬を得た上場企業の役員や金額を公表することになった。

23日に開催された株主総会などで2009年度に1億円を超えた役員報酬を開示する企業が相次いだが・・・。

何だか、気分が悪い。

2つの意味においてである。

一つは、他人の財布の中身を覗き込んでいるようで気分が悪いのだ。

別に誰がどのような報酬を得たかなんて、株主ならいざしらず、その会社にまったく関係のない一般市民に知らせる必要があるとは思えないからだ。

昔から日本の企業では、社長と一般社員との給料の差が、その責任の度合いに対して低過ぎるという傾向はあったと思う。

ほとんどの社長は四六時中、会社の事が頭から離れることがない。それくらいの重責と重圧を常に背負っているのだから、一般の社員との間に給料の差がある程度あるのは当然のことだと思う。

それが嫌なら社長にならなければ良いのだし、それを望むのなら会社を興して社長になれば良いのだ。

自分では何も行動を起こさないで、ただ他人の事を羨(うらや)んだり、嫉妬したりするのは品がない行動だと思うのである。

妬(ねた)みや嫉(そね)みは、知らなければ発生することはない。関心を持つから嫉妬するのだ。世の中には知る必要のないことも沢山あると思うのである。

それを、わざわざお上(金融庁)が発表させるというのは如何なものだろうか?

これは官僚が、自分たちへの天下りなどの非難をかわす為に考え出した庶民を馬鹿にした卑劣なものだろうと感じる。

もう一つは、知らされたことによって芽生えた嫌な感情だ。

日産のゴーン社長の1年間の報酬が約9億円とか、ソニーのストリンガー会長の4億円いうのは如何なものか?

グローバルスタンダードとしては当たり前だと日産のゴーン社長が言っていたが、まずは外国人の社長たちにそれだけの高額な報酬を取らせておいて、日本人の社長たちは、一般市民の反応を見た上で、来年度から上げてやろうとの姑息な考えに感じたからだ。

それだけの高額な報酬を役員に払っても尚、株主に配当金を支払て尚、社員の首切りをしなくても尚、黒字の会社なら堂々ともらえば良いではないか。何だか後ろめたさがあるから、堂々とできないように思えてしまう。

しかし、私は例え大企業の社長であっても、その報酬は1億2千万円が限度だと考えている。

それ以上の報酬を個人が貰ったところで、浪費以外に使い道なんてないだろう。

スポーツ選手の契約金が何10億円とかというのもオカシイな話だと思う。

嫉妬して言っているのではない。

お金というものは、「天下の廻りもの」なのだ。廻ることで経済活動が活発になると思っている。

少数の人間に使い切れない巨額な金を渡すから、余ったお金を投資したりして、世の中がオカシナ方向に向かうのである。金が金を産む社会は歪んでいる。

金持ちは既に有り余るほどのモノを持っているから、あまり金を使わないゾ。金持ちはケチなんだぞ!

世の中のなるべく多くの人に、お金が行き渡る政策の方が、景気は良くなると思うのである。

長者番付(私は載ったことはないが)なる、嫉妬心丸出しの不愉快なものが無くなって良かったと思っていたのに、もっと不愉快なことが始まった。


■2010-06-26-Saturday W杯決勝トーナメント進出

日本がデンマークに勝った。

(この文章は25日午前中に書いている)

今日の3:30キックオフのサッカーのW杯の対デンマーク戦で日本が3対1で勝ち、決勝トーナメントに進出した。

夜中に起きて見るほどのサッカーファンでもないから、5:30にトイレに起きた時にテレビを点けたら「勝った!勝った!」と騒いでいたので、「あぁ日本が勝ったんだなぁ」と思った程度の感動でしかない。

以前にこのブログに書いた様に、初戦のカメルーン戦に勝って、2戦目のオランダ戦に1点差で負けた時点で、ほぼ90%は決勝に進出できると思っていたから、さほど驚きもしない。

岡田監督は、この決勝進出ですっかり名監督になってしまったかのようだ。直前のテストマッチで4連敗していた時には、最低の監督と言われて「岡田!辞めろ〜!」とさんざん言われていたのに・・・。

このW杯直前のテストマッチで岡田監督が目指していた戦術が通用しないと判って、急遽、本番では戦術を転換したところが上手くハマって、カメルーン戦に辛勝したところから、ガラッと雰囲気が変わった。

結局、スポーツは勝てば官軍なのだ。

初戦のカメルーン戦に負けるのと、勝つのとでは雲泥の差である。おそらく引き分けでも雰囲気は暗いままであったろう。

オランダ戦に負けるのは順当としても、差を1点に抑えたところが大きかった。

デンマークが2点差でオランダに敗れているから、得失点差で優位に立ち、引き分けでも決勝進出できるというのは、かなり精神的にも楽になったことだろう。追いつめられると焦るのが人間であるから、多少でもゆとりを持って戦えるというのは理想的な展開である。

デンマークは日本の逆になってしまった。これは初戦に何処と当たるかが大きかったと思う。日本にはツキがあった。

それにしても本田選手の決定力は、これまでの日本選手にはないものだ。このまま本田選手が体調を崩さずにいて欲しいものだ。

今回の日本チームの勝利で、以前の代表選手だった中田英寿が霞んで見える。団体競技というのは、スーパースター選手がいても上手く機能しないものなのだなぁ。

岡田監督という人物は果たして運が良いのか、悪いのかよく判らない人である。

この決勝進出によって日本中はまさにサッカー一色で盛り上がっていくだろう。24日に告示された参院選挙は完全に霞んでしまった感がある。

このまま日本が29日のパラグアイ戦にでも勝ったりしたら、それこそ参院選挙は話題にもならないかもしれない。果たしてそれがどこの政党に優位に働くのだろうか?

どこかの会社が計算していたが、経済効果もかなりなものになるだろう。こういううれしいニュースがもっと多くなってくれれば日本も元気が出るというものだ。日本チーム頑張れ!


■2010-06-27-Sunday アッツイなぁ〜

26日土曜日の帯広の最高気温が

35.9℃だった。6月としては史上最高の温度であるし、今年、日本で始めての猛暑日であるという。ということは、この日は帯広が日本で一番暑い場所だったというわけである。

帯広という所は時々、夜のニュースで「本日、日本で一番暑かったのは北海道の帯広市でした」と出ることがあるほど、急激に暑くなる場所ではあるが、昨日は突然に体温並みの高温になったから、身体がついていかなくってとてもしんどかった。

昨日は、「駒澤大学同窓会十勝支部の総会」であった。総会に先立って東京から同窓の落語家「三遊亭王楽」さんを招いて、一般にも公開する落語会を開催する。

準備の為に14:00に家を出て、徒歩で会場の東急インホテルまで向かった。10分程度の距離なのだが、汗が吹き出てきてハンカチがビチョビチョになってしまった。ホテルの中もクーラーの利きがあまり良くない。ちょっと作業をしたら、途端に汗が出てくる。

東京から来た三遊亭王楽さんも「仲間たちからこの梅雨のジメジメした時期に、涼しくて爽やかな北海道に行けるなんてうらやましいね〜と言われて来たのに、その帯広が全国一暑いなんて・・・」とぼやいていたほどだった。

15:30〜17:15まで、三席の落語を演ってもらい。一般の聴衆の方も無料で聞けるのだから満足されたことだろうと思う。

他の大学の同窓会の総会で、このような同窓の芸人を招いて行う総会というのは聞いたことがないから、昨年、駒大が掛けた154億円もの宣伝費よりも大いに宣伝になったことだろうと思う。

最近は同窓生の参加が少なくなってきているので、もっと楽しい企画が必要なのかもしれないと感じた。

17:30から別室で開催した総会は無事に30分程度で終了し、懇親会が始まったが、話が長い人というのは困ったものである。

乾杯の挨拶をお願いした人がいつも話が長い人なので心配していたのだが、本人が「手短にお話しします」と言ってマイクに向かったので一瞬ホッとしたのだが・・・、かれこれ10分ほどもしゃべっただろうか。全員立って、手にはビールを持っているのに、ビールが湯気を出すのではないかと心配になったほどだ。あれで「手短か」なのだから普通に話したら30分はしゃべっていたのではなかろうか?

懇親会は和気あいあいと進行したが、売れっ子の王楽さんは翌日に仕事があるとのことで19:20には空港に向かった。

駒大本部から来ている唐沢さんという女性職員の方が残ってくれたので、二次会、三次会にも付き合ってもらって飲んだ。

23時頃には家に帰ったのだが、部屋は蒸し風呂状態である。飼っている犬の臭いで気分が悪くなるほどだ。

寝苦しくてまいった。飲み過ぎと裸で寝たのとで、すっかり身体が変調をきたし、今日は朝から具合が悪い。

寒いのは好きなのだが、暑さにはからきし弱いのである。これから苦手な夏だが、これを機会に少しはダイエットでもしてみようかな。


■2010-06-28-Monday マイヒストリー16

自分たちの資金40万円だけで活動するつもりでいたから

補助金のことなど眼中になかったので説明を聞いて戸惑った。

東京から帯広の各所に電話して、翌日からのアポイントを取った。なぜこんなに急いだのかといえば8月6〜16日まで家族旅行の日程が入っていたからである。

この補助金の申請の締め切りが8月下旬であるから、家族旅行に行く前に決めておかなければ間に合わないのだ。

3日の最終便で帯広に戻ったその足で、まずはTKLの幹部を緊急招集して話し合った。皆、「せっかく補助金を貰えるというなら、貰って活動しよう。40万円では大した活動はできそうにないと思っていたから丁度良いタイミングじゃないか!」「自己資金の400万円は出せる人間が出し合えば良い」「受け皿は坂本が交渉しろ」ということになったのである。結局400万円の内の150万円を私が、S会長が50万円、T副会長が100万円、もう一人のT副会長が100万円を出すことで自己資金の400万円は何とかなったのである。

問題は受け皿の方であった。

4日の午前中に私のビルに入居している「帯広市商店街振興組合連合会」を訪ねた。東京から電話して事前に理事長に会いたいとアポイントを取っておいた。

事務所を訪ねるとあれほど確認しておいたのに理事長は不在で副理事長が対応したのである。

商工会議所の議員で商業委員長もやっていた副理事長は7月19日の商工会議所の商業委員会に私を招いて屋台の事を議員に説明させ、説明終了後には「若い人たちの発想と行動力は素晴らしい。応援するから何でも相談においで」と言っていたのであるが・・・。

この副理事長は先のTKLが作成した「TMO提言書」を私の目の前でゴミ箱に捨てたご仁でもあるのだ。

案の定「屋台なんぞで街が活性化するはずがない。これからお盆の平原まつりの準備で忙しいから、こんなことで緊急の役員会を招集する暇はない。」と言う。私もあっさりと「そうですか!では結構です。お時間を作っていただきありがとうございました。」とたったの5分程でこの事務所を出たのであった。

この時に商店街振興組合の事務局長をしていた人がこの副理事長に「屋台は絶対に上手くいかないから関わらない方が良い」と強くアドバイスしたからなのだと、後日、商店街振興組合をクビになった事務局長から直接に屋台で聞いたことがあった。副理事長本人の意志か否かは関係がない。商店街を振興させる部署にいる人間が新しい活動の芽を摘んでどうするというのだろうか!

次に向かったのは帯広商工会議所である。こちらも事前に専務理事にアポイントを取っておいたが、こちらも同じような反応である。私が「一切迷惑は掛けない。報告書も金銭の管理も全部自分たちでやるから名前だけ貸して欲しい」と言っているのに、「三役を招集して決めなければならない。お盆休みが近いから無理だ」と役人みたいなことを言うのである。

そこで、商工会議所の副会頭でTMOを担当していた吉田勝副会頭の自宅に電話して訪ねたのだ。吉田副会頭は「何でそんな良い話を、商店街や商工会議所が断るのだ?一切の煩わしさは皆、貴方たちが引き受けるのだろう?名前だけ貸せば良いのだったら、私が責任を持って三役や議員を説得するから、貴方は安心して家族旅行に行ってきなさい。帰って来た頃には万事上手くいっているから」と言ってくれたのである。

しかし、万が一商工会議所がダメだった場合も想定しておかなければならないと思い。私が専務理事を務めている「帯広みやげ名店会」という協同組合の了解を取っておくことにした。この協同組合は、六花亭・柳月・竹屋・豆総・坂本商事の5軒で作っている組織である。それぞれの社長にアポイントを取って訪ねて行き、説明をして了解を取り付けたのだ。六花亭の小田豊社長は、商工会議所なんて面倒な組織を使わずに、最初から「帯広みやげ名店会」でやっても良いぞと言ってくれたのだ。まちづくりをやる時には、吉田さんや小田さんのような物分かりが良い人が居てくれないと先に進まないのだ。

結局、吉田副会頭の尽力で商工会議所が受け皿になってくれることが決定し、9月から1000万円の資金を使って「帯広商工会議所 北の屋台ネット委員会」として活動していくことになる。(つづく)


■2010-06-29-Tuesday サッカー一辺倒

このところのテレビ番組はサッカーのW杯一辺倒の様相だ!

確かに日本チームが決勝トーナメントに進出したことは大変喜ばしいニュースではあるが、何もテレビ各局がこぞってW杯ばかりを放送する必要はあるまいにと思う。

どうも日本人は一つの事に集中して、他の事は忘れる傾向が強い。しかもメディアがそれを強力に後押ししている。

鳩山首相が辞める前は普天間、普天間だったのに、辞めた途端に普天間問題はニュースでの取り上げ方がガクンと減った。まだ何一つ状況に変化がないにも関わらずにである。

おそらくW杯も、今日のパラグアイ戦に負けたらパタッと止まってしまうのだろうし、もしも勝ったら次の戦いまで伸びるだけだろう。

W杯で日本チームが決勝トーナメントに進んだことによる経済効果が2900億円という、何を根拠に導き出したのかよく判らない数字が独り歩きしているが・・・。

「パンとサーカス」を政治家がやっているなら話は解るが、メディアが政治から人の目を遠ざけるような行為をやっていることには疑問を感じる。逆だろう。

参議院選挙は完全にW杯に埋もれてしまって、さっぱり盛り上がらない。日本の政治が貧困だから、国民を馬鹿にしたタレント候補ばかりが目立っているのも問題だが、一時のW杯の興奮で、今後の6年間の政治を左右する参議院選挙をこれほどおろそかに扱っても良いものなのだろうか?

今朝のテレビ番組で、娘のやっている「シンクロナイズド・アイススケーティング」という16名で滑るフィギュアスケートの団体競技の特集が企画されていたが、これも急遽、今日のW杯の特集番組の為にスッ飛んでしまった。

親馬鹿だから、いろんな方々に前宣伝していただけに、放送延期の案内をするのに大変な思いをした。

スポーツで言えば、大相撲の野球賭博が段々とすごいことになってきている。ギャンブルというのは中毒になるそうだから、意志の弱い人間はやるべきではない。しょせん胴元や金持ちには勝てないシステムになっているのだから。

飯代程度を賭けるぐらいならカワイイものだが、何百万、何千万円にもなったらシャレにもならない。ましてや、今回の様に暴力団が胴元なら、負けたら金を払わされて、自分が勝っても恐喝されて金を取られるのなら、どうやったって勝てる訳がないではないか。結局、暴力団相手の賭けはどのみち金をむしり取られるだけの運命なのだ。

暴力団もあの手、この手でシノギを得ているようだが、最近は新興宗教が的になっているという噂も聞く。

消費税率をいずれ10%にすると自民党も民主党も言っているが、暴力団や宗教からは消費税が取れないではないか。

国民から取るよりも先に、こういう組織から徴税する方が先なのではないか?

この辺をしっかり仕分けして欲しいものだ。

ところで、昨日から高速道路の無料化実験が始まったが、早速恩恵があったので驚いた。

坂本商事のHPで木彫りの一品作品を展示しているのだが、旭川の木彫収集家がそれを見てわざわざ買いに来てくれたのだ。HPを作ってから3年ほどになるが、木彫製品が売れたのは初めてである。

しかし、高速道路の無料化という政策は難しいと感じている。

私は本来は道路というものは国の責任において整備するものだと思っているから無料が当たり前だと思うのだが、最初から無料化で造っているのならともかくも、日本のようにこれまで料金を徴収していて、黒字化もしていないのに、政権交替で急に無料にするという途中変更はいろいろな意味で混乱を招くと思うのだ。

長らく国民が慣れた政策の転換を急にするのは、よっぽどの準備をしてからでないと上手くいかないだろうと思うのである。

国民の大多数が自動車の運転をする(もしくは運転を望んでいる)のならともかくも、これから高齢化社会になって自分では段々と運転をしなくなる国民が増えるのならば、受益者が減るのだから、運転しない国民は無料にする分税金を使うことになる。そうなれば国民の了承を得にくくなるだろうし、ETCカードを買った人にも不評なのではないか?

もっと日本の政治を真剣に考える必要があると思うのだが・・・。


■2010-06-30-Wednesday パラグアイ戦

ウ〜ン惜しいな〜!

あそこまで行ったんだったら日本に勝たせてやりたかったネ〜。

俄かサッカーファンとて、23時キックオフなら見ないわけにはいかない。負け模様だったらすぐに寝るつもりだったが、目を離せない展開になって結局朝方の3時まで起きていた。

しかし、日本チームは120分間、実によく身体を張って守り抜いたものだ。途中2度は、完全にやられた〜と思った場面もあったが、川島のファインセーブでことなきをえた。ディフェンス陣もよく頑張った。

格上相手にW杯で4戦して失点が2点というのは、日本は守りのチームとして最高の戦い方であったと思う。

パラグアイ戦も圧倒的に攻め込まれて防戦一方であった。中盤のパスがまるで繋がらないから、パラグアイが上手いのかそれとも日本チームが疲労が溜まったか、緊張して身体が思うように動かなかったのか、俄かサッカーファンとしては判らないがかなり分が悪かったように見えた。それでも得点を許さず、120分間も0点で抑えたのは素晴らしいの一言である。

惜しむらくは、これまでのカメルーン戦とデンマーク戦のように数少ないチャンスに確実に決められる決定力がこのパラグアイ戦では発揮できなかったことだろう。それとやはり最後のPK戦だ。

駒野選手のPKがギリギリを狙ってか、枠をはずれてミスしてしまったのがいかにも惜しい。

その直後にPKを蹴った本田選手が「PKはギリギリを狙う必要なんてないんだゾ!こうやって緩い球で真ん中に蹴っても入るんだゾ!」と言わんばかりのPKをやって見せたのが印象に残った。

相手ゴールキーパーのファインセーブに阻まれたのなら相手を褒めれば良いが、枠外に蹴ってしまうのは、自滅的でいかにも残念なPK失敗である。やはり鉄則は「枠内に蹴る」である。

せっかくの120分間の死闘が、あの一蹴りでパーになってしまったのだから駒野選手は辛いだろう。

蹴る直前には冷静な判断が出来なかったのかもしれない。

惜敗は大敗よりも心理的には辛いものだ。悔みが残るからだ。

日本は最後の最後に運が少しだけ足りなかったようである。

しかし、今回の日本チームの前評判の悪さは酷かったが、カメルーン戦に勝ったことで雰囲気が一変した。この辺はクジ引きの運が良かったのだ。もしも、第一戦目がオランダ戦で1対0で負けていたら雰囲気は「やっぱり駄目か〜」になっていたことだろう。

スポーツというのは番狂わせがあるから面白いのだ。

暗い話題の日本に、明るいニュースを届けてくれた日本チームに感謝しよう。よく頑張った!ありがとう〜!!