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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2018-10-03-Wednesday 松旭斎天洋

9月28日に札幌で開催された

プロマジシャンの「バーディコヤマさんの芸歴50年を祝う会」に出席してきた。

2次会の席で、バーディさんが「松旭斎天洋先生が舞台で実際に使用したビヤ樽を預かっているが、マジック・ミュージアムに寄贈しましょう」と言ってくれた。

「ビヤ樽」と云うマジックは、樽の上下の板が抜けた横の側だけの空の樽に新聞紙で上下蓋をする。その蓋になった新聞紙に蛇口を差し込むと、ビールが中ジョッキ数杯分の量出て来て客にビールを振る舞うと云うマジックである。

ここで、天洋師のことを詳しく紹介する。

「松旭斎天洋(しょうきょくさい てんよう)」(1888年9月21日 - 1980年9月30日)はプロマジシャンで、初代の「日本奇術協会」の会長でもある。

天洋師の母親が日本近代奇術の父と言われた「松旭斎天一」の姉であったことから1904年(明治37年)頃に松旭斎天一に弟子入りして松旭斎天松という芸名をもらう。兄弟弟子には松旭斎天勝や松旭斎天二らがいた。

師匠の天一が死去してからは松旭斎天洋と改名し、1912年(大正元年)に「天洋一座」を旗揚げして座長として独立し活躍した。

昭和恐慌を端緒とした不景気の影響により天洋一座は財政的に困窮した為、困った天洋は手品を趣味としていた医者の緒方知三郎の所に相談に行った。すると緒方から「手品の世界を一般の人たちにも開放してはどうか」 とアドバイスされた。

当時、手品の商品を一般人に販売することはタブー視されていたが、天洋は1931年(昭和6年)に東京の新富町に「天洋奇術研究所」を設立して三越日本橋本店で手品商品の実演販売をおこなったのである。

この実演販売をきっかけとして三越各店での実演販売を行っていくと好評を得ていき、天洋一座の財政も好転するようになっていった。

1936年(昭和11年)4月には(初代)松旭斎天勝の発案で、「奇術界の発展、奇術師同士の技術向上、親睦」を目的として32名の職業奇術家が目黒雅叙園に集まって「職業奇術家団体同好会」創立の会合が開かれた。名誉会長に初代・天勝、会長に天洋が就任した。この同好会が後に「日本奇術協会」となる。

1941年(昭和16年)には太平洋戦争により手品商品の材料が手に入らなくなり、「天洋奇術研究所」は一時閉鎖となった。

終戦後、再び「天洋奇術研究所」を活動再開させたものの天洋は進駐軍での舞台公演に時間を取られて販売まで手が回らず、売上げは伸びなかった。

1953年(昭和28年)に天洋の六男である山田昭が「天洋奇術研究所」を新たな発想のもとに刷新していった。

その後1960年に株式会社化し、これが後の「株式会社テンヨー」の前身になる。

天洋の弟子の(初代)引田天功、島田晴夫、八田加寿雄、ジミー忍、バーディコヤマ、Mr.マリックらはデパートでの実演販売をするディーラーからプロマジシャンになった。1964年に75歳で引退。

マジシャンにとっては、天洋師は天一からの本流の系統であり、且つまた一流の弟子を多く育てた、とにかくスゴイ人なのである。

天洋師は私の師匠(故ジミー忍師)の師匠であるから、私は孫弟子と云うことになる。そんなマジシャンが実際に舞台で使用していた道具を寄贈してくれたのであるから、マジック・ミュージアムにまた目玉が増えたのだ。嬉しいことである。