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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2019-04-01-Monday 休載日2

今日も「島田晴夫物語」は休載日

新年号の発表日と年度初めとが重なり、おまけに十勝を舞台にしたNHKの朝ドラ「なつぞら」が始まったので、ニュースが多かったから休載日となったのである。

その代わりに・・・。

プロマジシャンの組織である日本奇術協会が会員(プロマジシャン)向けに発行している「マジックわくわく便り」と云う季刊の機関紙(VOL.33)(A4判8ページ)が今日届いたのであるが・・・。

私のニュースが3ページに亘って紹介されていたのである。

まずは、表紙の下部に「L.A島田晴夫師邸滞在記 マジック・ミュージアム館長 坂本和昭」の大きな文字と共に、島田師邸で写した写真が3枚も掲載され、その横に「本文次ページへ」の文字。

ページを開くと見開きで2ページにわたってデカデカと掲載されている。P2は私が書いたロサンゼルス滞在記とマジックキャッスル前で撮影した写真。北海道新聞の「ビル地下に小劇場構想」の新聞記事の切り抜き。

P3には、十勝毎日新聞の「まちなかに小劇場を」の新聞記事の切り抜きと2月4日の日本奇術協会でおこなった私の「特別セミナー」の新聞記事の切り抜き、他に2つの新聞記事の切り抜き。

P3にはその「特別セミナー」の内容が掲載されているではないか。

8ページの内の3ページが私の記事なのであるから、まるで、私の特集号みたいな扱いである。

嬉しい半面、恐れ多い感じがする。恐縮である。


■2019-04-02-Tuesday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「渡米志しメキシコへ」

シドニー港では、前回公演で知り合ったディアナが出迎えた。「日劇の公演の時に、妻を1人日本に置いて、自分はオーストラリアに来てディアナとよろしくやっていたのだから、(前妻の駆け落ちは)お互いさまだったけどね」と笑う。

ディアナを新しいパートナーにして初仕事をしようとしたら、観光ビザしかない。豪州国内ではワーキングビザへの変更手続きはできないのだ。当時の豪州は白豪主義で白人以外の移民はかなり制限されていたので、日本に強制送還されかねない情勢だった。

相談した弁護士からは「いったん、豪州から出国して大使館に行ってビザを依頼するか、さもなければ豪州人女性と結婚する方法も」と聞いたので、ディアナに結婚してくれるかと聞いたら、あっさりとOKの返事。じゃぁ結婚しようとなったが証人が必要だという。シドニーには知り合いもいないので、中華レストランのウェイターに証人になってもらい教会で結婚式を挙げ、仕事することが認められるようになった。1965年10月のことで、66年9月には長女のリサも誕生した。

豪州に3年いる間に、だんだんと言葉も話せるようになり、仕事も順調に進むようになった。しかし、エンターテインメントならやっぱりアメリカだと思い、米国のエージェントの住所を調べては手紙を出しまくったが返事は皆無であった。

67年12月、シドニーでメキシコ人歌手が公演した際のゲストに呼ばれ、客にはメキシコ領事が来ていた。島田の演技に魅了された領事と親しくなり、米国のコネクションが欲しいと話すと、メキシコの観光ビザなら発給してあげるという。

メキシコなら米国の隣の国だし、遠い豪州にいるよりも、ずっとチャンスが多いだろうと思ってメキシコに行くことにした。68年3月のことである。

直行便が無いので、フィジー、タヒチ、ホノルル、ロサンゼルスと乗り継いで3日かかってメキシコシティに到着した。着いてからはたと気が付いた。メキシコはスペイン語圏であったということに。

島田も少しは英語が話せるようになってはいたが、ディアナもスペイン語はまるで分からない。日本大使館に行きマジシャンだと言って、メキシコのエージェントを紹介してほしいと頼んだのだが、そういうつてはない、英語ができる歌手なら知っていると紹介された。

その歌手が紹介してくれたのが、テアトロ・ブランキータというメキシコナンバーワンの劇場のオーナーだった。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】豪州で、ディアナ夫人と最初に撮った宣材写真(1965年)

2019年4月2日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-03-Wednesday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「サーカス団 泥の中の演技」

ブランキータ劇場のオーナーの自宅でオーディションを受けた。観客は彼の奥さんと8人ほどの子どもと、6人ほどの使用人。鳩出しを演じたら、子どもたちが「パローマ(鳩)、パローマ」と大喜びで気に入られてすぐに契約をした。6週間、1日1000ペソ(80米ドル)で週560米ドル、トップクラスの契約であった。

観光ビザの問題は米テキサス州のラレドまでバスで行き、領事館でワーキングビザをもらうことができて解決した。ブランキータ劇場との契約が終了すると、メキシコで2番目に大きいサーカス団の仕事が入ったが、ここの仕事は楽ではなかった。

大雨が降ると、サーカステントの中の床もぬれていた。象の芸の後だったので地面がグチャグチャにぬかるんでいる。泥の上に板を渡して演技する場所まで行かねばならない。ディアナはロングドレスの裾をたくし上げ、島田はえんび服の上に羽織ったマントの裾を持ち上げて中央まで行ったが、土がぬかるんで軟らかくなっており、そこに靴がズブッとハマってしまって身動きが取れなくなった。

「照明係が感電」

その時、スポットライトの照明係が遅れて来て慌ててはしごを登っていったが、鳩出しの最初の1〜2羽を出した頃に、水滴で感電してはしごから落下した。観客は島田の演技よりも、落下した照明係を心配そうに見ている。しばらくその場で様子を見ていたが、マジックを続けてもしょうがないと思い引っ込んだ。エナメルの靴は中まで泥だらけになってしまい洗って乾かすのも大変だった。

この後、週一の集計でのギャラをもらう時に金額が少なかったのでオーナーに問い合わせると、「照明係が落下した時に、貴方は2羽出しただけの演技しかしなかったでしょう。だから一日分の50ドルを差し引いた」のだという。文句を言ったらしぶしぶ払ってくれたが。

雨が降ると、テントの屋根に雨水がたまってたわむが、テントにオーナーの息子が入って来て、外に出てくれという。何をするのかと思ったら、拳銃を取り出して、テントの屋根に発砲して穴を開けて雨水を出した、何という大ざっぱな連中だとあっけに取られた。

「闘牛場で囲まれ」

またある時は、砂嵐に襲われてテントが倒れてしまったのでショーが中止になると思ったら、空中ブランコはできないが、マジックや曲芸などの床で演じる芸人は町の闘牛場に行ってそこで演じろという。メキシコではどんなに小さな町にも闘牛場があるが、周囲をぐるりと観客に囲まれた状態で演じなければならないのだ。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】メキシコ、テアトロ・ブランキータに出演(1968年)

2019年4月3日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-04-Thursday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「英国で鳩出し通用せず」

当時は鳩(はと)とカードを演じていたが、鳩はまだしもカードは後ろから見られるわけにはいかない。楽団に配布してある譜面は、音楽と演技がピッタリ合うようにあらかじめアレンジしてあった。そのためカードの部分だけをカットするわけにはいかない。仕方なくカードの時には司会者に、演技している後ろ側に立ってもらってカバーした。

「妻の病気で日本に」

サーカスではトレーラーを与えられ自分で運転して移動したが、小さな寝床があるだけでトイレも風呂も付いていない。水は毎日、子どもが売りに来る。日本円で10円か20円程度も渡すとバケツに水をくんで来る。その水で身体を洗うのである。

トイレのない田舎に行くと、穴を掘って用を足したら埋めるだけ、囲いもないところでするのは日本人には耐えられないから、バケツを買ってトレーラーの中で用を足して外に捨てに行く。そんな生活を5カ月も我慢して続けていた。契約期間はまだ1カ月残っていたのだが、我慢の限界に達してワダラハラという街に行った時にサーカスを辞めたのであった。

再度、テアトロ・ブランキータに出演するが、ディアナが腎臓結石を患ってしまった。サーカスでは食事の事情が悪かったので偏食になり、身体にも無理が掛ったのだろう。その痛みを我慢しながら4週間ブランキータの舞台を務めたが、治療のために日本に帰国することにしたのである。

1968年12月にメキシコでの仕事を終えて日本に戻って来た。ディアナの腎臓結石は銀座の病院に半年通って完治した。

日本にいる間は、ナイトクラブやキャバレーなどの仕事をしていたが、海外での仕事をしていたから酔客相手では満足できなかった。そんな時期にシンガポールから仕事のオファーが入ったので、シンガポール、ペナン、マレーシア、バンコクを回ってからヨーロッパに入ることにした。

「仕事なく困窮」

70年、東南アジアからイギリスのロンドンに入り、仕事を求めてエージェントに通うが、オーディションの機会さえもらえない。鳩のアクトは、オーストラリア、メキシコ、日本では一流で通っても、ロンドンでは無名だったのである。鳩出しをやるマジシャンはヨーロッパには掃いて捨てるほどいるから、日本人マジシャンの鳩出しは必要とされなかったのである。

知らない国に行くと、一からの出直しで、いくら腕に自信があっても、相手にしてもらえないということを思い知らされた。

仕事をすることもなく3カ月が過ぎ、東南アジアで得た資金も底を尽きかけてきた。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】メキシコ、ユニオン・サーカスのオープニングで場内1周(1968年)

2019年4月4日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-05-Friday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「和傘の演技が好評博す」

えんび服で鳩出しをする日本人マジシャンの需要はヨーロッパにはないとエージェントからも言われ、日本人らしいアクトがどうしても必要だと考えた。何か日本的なモノは無いかと中国人が経営する雑貨店に入ったら和傘が売られていたので数本購入したが、この時点では使い道を思い付いたわけではなかった。

とりあえず外人が着るような薄っぺらな着物と剣道のはかまを購入。ディアナが加工した着物とはかまを着て、写真館で宣材写真だけは撮影したが、この時点では傘のアクトはまるでできていなかった。この時まで、着物を着たことすらなかったのだ。

「再びメキシコへ」

ロンドンにいても仕方がないとフランスのパリに行ってみたが、パリではテンヨーの後輩である八田加寿雄が頑張っていたので、日本人マジシャンが2人いてもと考えた。パリでオーストラリア時代に世話になったマジックショップのオーナーと再会。彼がメキシコへの旅費を工面してくれたので、再びメキシコに戻ったのであった。

再度のメキシコでは、打って変って大きな収穫があった。30週(実際には20週でアメリカに行く)にわたるテレビ番組のレギュラー出演が決まり、劇場への出演、おもちゃ会社のコマーシャル出演などの仕事がきて生活が安定した。この時期メキシコではかなりの有名人であった。

「テレビ番組出演」

30週のテレビ出演契約では、毎週異なる演技を要求されたが、15週もすると演目も底をついてきた。そこで、ロンドンで購入した和傘を使って、いろいろな方法で試してみた。傘の頭部を持って出す方法や、連続して出現させるアイデアを思い付き、テレビで演じて好評を博した。このテレビの仕事では、マジシャンのトニー・スライディーニとジャック・ゴールドフィンガーとの出会いという収穫もあった。

アメリカに行きたいとの夢をこの2人に相談したら、ビル・ラーセン(ロサンゼルスのマジック・キャッスルのオーナー)とミルト・ラーセン(ビルの弟)がやっている「It’s Magic!」というショーに出たらよいとのアドバイスをもらい、連絡を取る方法を教えてもらった。

ビルに手紙を出したが、「鳩出しができる」と書いても相手にされないと思い、この時点では未完成ではあったのだが「傘が空中から出現する」と書いて売り込んだ。まだこの種のマジックはアメリカでも存在していない唯一無二のマジックであると思ったからだ。

この売り込みが成功して「It’s Magic!」に出演して欲しいとの返事が来た。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】2度目のメキシコ。テレビ番組で和傘をプロデュ―ス(1971年)

2019年4月5日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-06-Saturday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「米の人気番組で手応え」

1971年、念願のアメリカに渡り「It’s Magic!」で1週間演じて大好評を博したが、もうメキシコには戻りたくないので、オーナーのビル・ラーセンにマジック・キャッスルで使って欲しいと頼んだ。しかし、当時のマジック・キャッスルには現在の「パレス劇場」はまだなく、狭くて天井が低い劇場しかなかった。

傘のアクトでは天井にぶつかってしまう、「傘以外に何か別のアクトはできないのか?」と聞かれたので「鳩出しができる」と答えた。ビルはまだ島田の鳩出しを見たことがなかったのだ。

1週間後のマジック・キャッスル初演の日、ビルが司会をして島田を紹介し、そのまま舞台袖で鳩出しを見ていた。これを初めて見たビルは「こんなに素晴らしい鳩のアクトは、これまでに見たことがない」と大絶賛し、広くマジック関係に宣伝をしてくれた。

「運命の出会い」

「It’s Magic!」の公演中のこと、ビルとマジック・キャッスルに行くとチャニング・ポロック(マジシャン)らが食事をしていた。紹介してもらったら「ショーを見たけど良かったよ」と言われて電話番号を教えてくれた。

71年12月30日にチャニング・ポロックから「明日、ニューイヤーイブのパーティをやるから家に遊びに来ないか」との誘いの電話が入った。

ポロックは数年前に引退して、中国系の女性と再婚しビバリーヒルズに住んでいた。ディアナを同伴し訪ねると、15、16人がにぎやかにだんらんしていた。ポロックが島田の横に来て「君のマネジメントを私にやらせてみる気はないかい?」と言う。憧れ、尊敬もしていたポロックからの申し出に「お願いします」と即答したのであった。

「ビザでトラブル」

ジョニー・カースン(テレビ司会者)が司会する超人気番組の「トゥナイト・ショー」(62〜92年の30年間カースンが司会した)に71年12月に出演して鳩出しを演じたところ、視聴者から「SHIMADAって誰だ?」という問い合わせがテレビ局に殺到した。

「トゥナイト・ショー」はナショナルテレビのメイン番組で、カースンが島田のことを大変気にいってくれた。高評価に手応えを感じ、さぁこれからだ!と思ったが、またも問題が発生。アメリカにもツーリストビザで入っていたから仕事をしてはいけないのに超人気番組に出演してしまったのだ。

ビルは「ヤマシロ」という日本レストランの料理人として登録してくれたが、もちろん魚などさばいたことはない。キャッスルで鳩を出していただけであったが、この便法も効果があったのはわずかな期間だけであった。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】マネージャーのチャニング・ポロックと(1978年)

2019年4月6日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-07-Sunday 新聞休刊日

十勝毎日新聞が休刊日の為

好評の「世界一のマジシャン島田晴夫物語」の連載も新聞そのモノがお休みなので当然ながらお休みである。

明日の新聞も、北海道知事選挙や北海道議会議員選挙の記事で埋まるであろうから、おそらく連載は休載になると思う。

これまで、新聞が午後2時頃に発行されるとすぐに本社に買いに行き、切り抜いてPCで全国の知人に送付しているが、皆さんとても面白いと喜んでくれている。

一度に14,000字の文章を読むのは大変であるが、毎日1,000字ならば気軽に読める。新聞の連載という形態が幸いしているのかもしれない。

中には、毎日、感想を送ってくださる方もいる。

新聞での連載にあたっては、マジックには無関心の方の方が圧倒的に人数が多いであろうから、専門用語は使わずに、分かり易い表現を心掛けたつもりであったのだが、やはり、どうしてもマジシャンとしての常識と一般人の常識との差を、十分には認識しきれなかったようである。

「スライハンド」の意味が分からない。

「八つ玉」なのに何故「35個?」。

アメリカで活躍した都市名はどこ?

などの質問が来たのであった。

一応ここで答えておくことにするが、

「スライハンド」とは「手錬奇術」と訳されているが、手技を使ったマジックのことである。

「八つ玉」なのに何故に35個かと云うと、色替えをやったり、一度出現させた玉を捨てて、また出すなどを繰り返して合計35個の玉を使った構成のマジックと云う意味。

アメリカで活躍した都市は、「ロサンゼルス」である。


■2019-04-08-Monday 休載日

今日も「島田晴夫物語」は休載である。

選挙結果の記事などが多くて紙面が足りなくなったようである。

選挙はこれから、帯広市議会議員選挙が始まる。

日本の各地では、議員の成り手が少ないと言う地域が多いというのに、帯広市議は29名の定員のところに、今日現在で42名もの立候補者が名乗りを挙げている状況だ。

聞くところによると、更に1名の候補者が名乗りを挙げるらしいという。

どうしてなんだろう?

何故にこんなに帯広市議になりたがる人が多いのだろうか?

公人になった方が活動が制限されてしまうような気がするから、議員などになるよりも、私人で活動した方が自由にやれると思うのだが・・・。

まぁ、何にせよ、新聞では42名もの候補者の紹介をしなければならないから、紙面が足りなくなってしまうのだ。

あまり、間を開けずに終了させてしまいたいのだが・・・。


■2019-04-09-Tuesday 連続休載日

「島田晴夫物語」は今日も休載

休刊日と合わせると3日連続での休載である。やはり、選挙関係で紙面が不足しているようだ。

今日、9日は坂本ビルのテナントである「コロワイドグループ」(北海道アトム)のリニューアルオープンの日である。

これまで「甘太郎」と云う店舗ブランドであった店を「カルビ大将」と云う焼肉の店にリニューアルした。

また、カラオケの「デイトリッパー」を「時遊館」と云う店舗ブランドに変更したのである。

かなりな額の経費を投入してのリニューアルであるから、頑張ってもらいたい。

ビルオーナーとして開店に合わせて招待を受けたので従業員らと一緒に6人で試食しに行って来た。

肉も良い肉を使っているし、タレの味も良い。サブメニューも充実しているから、焼肉店の多い帯広でも充分に勝負が出来るであろう。

いかに多くの客に来店してもらって、味の良さを体験してもらい、良い評判が立つことが今後の課題であろう。


■2019-04-10-Wednesday 4日連続休載

イヤー参ったなぁ〜。

今日で4日連続の休載である。

このままだと帯広市議選が終わるまで休載が続くんじゃぁなかろうかと危惧している。

あまり間を開けてしまうと、前号の内容を忘れてしまうから、こういう連載物は間を開けずに掲載してもらいたいのだが・・・。

早く続きを読んでもらいたいのに・・・。


■2019-04-11-Thursday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「難航した「グリーンカード」」

マジック・キャッスルのメンバーであった弁護士のロニー・ヘッカーに相談したら、グリーンカードを取得するしか方法がない、島田夫妻は入国管理局の強制退去にリストアップされているんだという。

ロニーは、島田がアメリカにおける東洋のマジシャンというカテゴリーの中で唯一無二の存在であることを証明することにした。チャン・リン・スー、フーマンチュー、オキト等、過去に東洋人として活躍したマジシャンたちは、実は白人が東洋人に化けていたことなどを提示したのだ。

キャッスルのメンバーであった映画俳優のケーリー・グラントやダイ・バーノン等キャッスルメンバーのマジシャンたち、ジョニー・カースン(テレビ司会者)からも協力を仰いで、「島田こそは真の東洋人マジシャンとして貴重な存在、アメリカ人の仕事を奪うのではなく、特殊技能でアメリカ人には出来ない仕事だから問題はない」と提示。これによって、取りあえず強制退去は停止されたが、それでも、グリーンカードがなければアメリカでは仕事ができない。

1973年になって、グリーンカード問題に好転のきざしが出てきたが、なかなか発行はされない。業を煮やした島田はフランスのオリンピア劇場からのオファーを受けてパリでの仕事を始めたのであった。仕事を始めて2カ月後のこと、アメリカの弁護士ロニーから「移民局のインタビューがあるから戻って来い」という連絡が入った、「オリンピア劇場との契約があるから帰れない」と言うと「何を言ってる!このインタビューを受けなければグリーンカードの取得ができないどころか、投獄されるんだぞ!契約を破棄して帰って来い!」と言う。

慌てて、オリンピア劇場に事情を説明してアメリカに帰った。朝の8時にアメリカに戻り、リサとディアナを同行して移民局のインタビューを受けて、午後一番の飛行機に乗ってとんぼ返りし、オリンピア劇場との残りの契約を完遂したのであった。

アメリカに戻ると2回目の「トゥナイト・ショー」の出演が待っていた。1回目の演技が大好評であったのだから、2回目の演技は前回以上のパフォーマンスを披露しなくてはならない。ところが、パリから戻って来た時に、10羽の鳩が検疫に引っ掛かって持ち込むことができなくなってしまった。鳩には調教を施してある。ステッキに止まる鳩と、飛ばしたら戻って来るように調教した2羽の鳩は完ぺきなパフォーマンスをするには絶対に必要だったのである。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】グリーンカード取得の際のスポンサー、俳優のケーリー・グラントと(1981年)

2019年4月11日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-12-Friday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「アメリカで活動本格化」

「鳩をすり替え」

困った島田は一計を案じた。調教した2羽の鳩を、他の鳩と入れ替えてしまおうというのだ。替え玉用の鳩はマジシャンのゴールドフィンガーから借りた。

検疫事務所に行くのに、仕掛け付きのマジック用の燕尾(えんび)服を着て行くわけにはいかないから、ディアナが普段着のジャケットに鳩を隠すポケットを縫い付けた。そこに鳩を隠してディアナと向かい、預けてある鳩の状態を確かめたいと申し入れた。

検疫官は10羽の鳩が入ったケージを持って来て「ちゃんと世話をしているから大丈夫」と言ったが、「鳩の羽に羽虫が付いている場合があるから調べたい」と言い、ケージから1羽の鳩を出して羽を広げると、はたして羽虫が付いていた。

その羽虫を検疫官に見せて「何かパウダーの様なものはないか?」と聞くと、探しに別室に出て行ったので、その隙にポケットの鳩とケージの鳩の2羽をすり替えた。この間わずか30秒ほど。検疫官が戻って来て「あいにくそういうモノはないなぁ」と言う。ジャケットの隠しポケットの中にはすり替えた鳩が入っている。ディアナが目配せをしたので、急いで検疫事務所の外に出た。

「現代なら監視カメラだらけだから、こんなことはもう無理だし、もし見つかっていたら、グリーンカードもパァーになっていたかもしれない。私にとって絶対に失敗したくないトリックだった」といたずらっぽい目をして笑った。こうして出演した2回目の「トゥナイト・ショー」も大成功であった。

この後は念願であったアメリカでの活動が本格的に始まる。グラミー賞やアカデミー賞の授賞式で有名なロサンゼルスのシュライン・オードトリアム、ラスべガスの三大レビューショーであるディーンズ(現在ベラッジオホテルが建っている場所にあったホテル、1993年に閉鎖)のカジノ・ド・パリ等に出演した。

この頃に、マネージャーのチャニング・ポロックから「傘は良い演技だけど、何かが足りない。それが何なのかは私にも分からないけれど」とのサジェスチョンがあった。傘のアクトに緊張と緩和の要素を加えたが、さらにドラマ的要素と観客の感情に働き掛けるものが必要だと感じた。そのヒントは日本の郷土芸能にあった。

「大蛇の神楽ヒント」

70年の大阪万博で見た島根県出雲地方の八岐大蛇のお神楽であった。島田は40年辰(たつ)年の生まれで「龍」からインスピレーションが湧いたのである。日本に帰って島根県のお神楽に連絡を取って、龍を製作してもらい、東宝には舞台セットを頼んで手順を組み上げた。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】ドイツ、フランクフルトTIGERPALAST VARIETE THEATER 出演時の絵はがき(2002年8月〜2003年2月)

2019年4月12日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-13-Saturday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「火を噴く龍で世界風靡」

1975年、アメリカに帰り、ドラゴン・イリュージョン(D・I)を「It’s Magic!」に掛けた。従来の人体交換マジックは「箱」を使って行うが、D・Iは龍が人にグルグルと巻き付いた状態で入れ替わる。口から火を噴き、暴れ回る龍との戦いは物語性があり、エキゾチックでオリエンタルなアクトとして全世界から絶賛され、一世を風靡(ふうび)したのである。

着物を着て演じる傘のアクトからつながっているD・Iを、もしも日本で完成させようと思ったら、日本舞踊や歌舞伎等の方面から所作などの注意があったかもしれない。日本のものを生かしてはいるが、傘のアクトも龍のアクトもオリジナルな芸で、古典芸能の型にはまるような演技にはしたくなかった。我流であったことが功を奏したという。

「手品界スターに」

88年からラスベガスのリビエラホテルの「スプラッシュ」と言う人気ショーのスペシャルゲストとして5年間、トリを務め、ホテル前に「SHIMADA」の看板が立った。マジック界のみならず、エンターテインメント界においてもスーパースターとなった。「アカデミー・オブ・マジカル・アーツ」が世界一と認定するマジシャンに贈呈する「マジシャン・オブザ・イヤー」(74年)をはじめ、マジック界のメジャーな賞を全て獲得したマジシャンとなる。

97年からはマジックの個人レッスンを始めたが、島田晴夫のキャラクターは唯一無二のもの。島田のマジックを他のマジシャンに伝授しても、伝授されたマジシャンは島田晴夫には成り得ない。マジシャンにはパーソナリティが必要だが、西洋にいる日本人であるということが幸いした。他の西洋人のマジシャンとはおのずから異なっているから、島田の「色」をつくったことになる。

島田はこれまでずっとしゃべらずにマジックを演じて来た。東洋のミステリーを保つためには黙って演じるのが一番だ。口を開いて、妙なアクセントでしゃべったら、その途端に雰囲気が消えてしまうという。マジシャンの中には自分の技術を見せたくて、技術をアピールするための曲芸的な技であるフラリッシュを多用する人がいるが、あれは曲芸と同じようなものでマジックではない。

「感動する演技を」

観客がマジックを見て、「不思議だなぁ」というのはマジックをやっているのだから当たり前、「うまいなぁ」と言われるのもプロなんだから当たり前、「タネが分からなかった」なんて言われるのは論外。観客から素晴らしい、感動したと言われる「アーティスト」になりたいのだという。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】最初に撮ったドラゴンアクトの宣材写真(1975年)

2019年4月13日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-14-Sunday 休載日

日曜日は休載日

3月27日から十勝毎日新聞紙上で連載中の「世界一のマジシャン島田晴夫物語」は日曜日は休載日である。

妻が映画を観に行きたいと云うが、「ドラえもん」「名探偵コナン」「シティハンター」「プリキュア」など子供向けのものが多い、そんな中で「翔んで埼玉」と云う邦画を妻が見つけてきた。

聞いたら、埼玉をこき下ろすような内容の映画だと云う。そんな映画って作れるのかなぁ〜?と思ったが、興味が湧いてきたので一緒に行くことにした。

以前は「夫婦50歳割引制度」で2人で2200円であったが、もう2人とも60歳を越えたので、1人でも「シニア割引」で1100円で見られるのである。

例によって、まだ見ていない人の為に、内容は詳しく書かないが、結構笑える映画であった。

今どきは、自分が気に喰わない内容であったら、すぐにクレームを入れる変なご時世であるが、埼玉県人達の度量は広いようだ。

もともとユーモアやパロディなんてものは、キワドイもんである。

この世の中、自分が気に入る表現方法だけの、出版物や映画などの作品がある訳がない。

好きなモノもあれば、嫌いなモノもある。幅があるから、多様性があるから面白いのである。

あらゆる表現方法を許容する余裕がなければ、芸術や文化なんてものは発展しないのである。

それなのに、制作する側が、クレームをつけられたらすぐに取り下げたり、中には、クレームが来るんじゃなかろうかと、発表する前から「忖度(そんたく)」して自主的に取り下げる風潮が増えて来た。クダラナイ言論統制をやっているようでまことに嘆かわしい。

こんな映画もあって良い。


■2019-04-15-Monday 勝毎「論壇」

2019年04月15日十勝毎日新聞「論壇」掲載記事

「小劇場」

十勝毎日新聞1月29日付に「まちなかに小劇場を」との大見出しで、坂本ビルの地階に小劇場を造る計画が進行しているという記事がデカデカと掲載された。

坂本ビルの地階にはかつて居酒屋が入居して繁盛していたのだが、退去後は長らく空きスペースとなっている。

平原通が飲食店化していく先鞭(せんべん)をつけたのは、おそらく坂本ビルなのであろうが・・・。帯広の人手不足は深刻だ。もともと学生のバイトが少ない上に、主婦のバイトも農繁期は出面さんに移る傾向があるようだ。

物販も、ひと頃は中心街からロードサイド店に客足が移り、現在は、それがネット販売に移っている。経済は生き物であり、時代の流れと言ってしまえば身もふたもないが・・・。ビルのオーナーとしては、空きスペースの有効活用は必須である。

私の趣味は「マジック」だ。11歳からやっているから、かれこれ半世紀も飽きずにやっているが、帯広には、文化を発信する適度な場所が少ないことを危惧している。

芸能事は、何事も「場数を踏む」ことが上達の秘訣(ひけつ)であると思っている。だが、帯広にはそのための適度な会場がない。客席が平らな会場では、前席に座る人の頭が邪魔して演技者の手元が見え難いから、階段状の客席がある会場が望ましいのだが、適度な客席数ではないのだ。帯広市民文化小ホールは560席、とかちプラザのレインボーホールは350席。

この大きさの箱を満杯にするのはそう容易なことではない、リサイタルの企画をするにしても、せいぜい年に一度が精いっぱいとなる。

帯広市の人口規模ならば100席程度の小劇場がちょうど良い大きさだと思うのである。チケット100枚ならば販売も楽になるから、演劇、音楽、映画、落語などなら年数回の開催が可能になるだろう。

想像してみてほしい、350席の会場を借りて、もしも客数が100人だったならば、3分の2が空席では盛り上がらない。沢田研二ではないが、演者側の心理としては常に満席状態で演じたいものなのだ。

下北沢の小劇場に出演した経験があるが、ステージは狭く、楽屋もなく、出演者側には使い勝手が悪い会場が多かった。いずれの会場も、古い建物を改造して造っていたから、客席数を確保しようとすると、演じる側のスペースに無理が掛かってしまう。

私はオーナー側と演者側の両方の心理が分かるから、その両問題を解決したいと考えている。だが、諸問題を解決するにはまだまだ協力者を必要としている。


■2019-04-16-Tuesday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」

「活躍50年過ぎても進行形」

マジシャンの中には大酒飲みが多くて、酒で身を持ち崩す人もかなりいる。島田も若い頃から浴びるように飲んだくちだ。フランスの劇場に出演していた時にシャンペンの味を覚えて、毎日飲んでいたという。2002年に酒の飲み過ぎからか肝硬変になり、やがて肝臓がんへと進行し、11年に東大病院で手術を受けて回復したが、以来、酒はピタリとやめた。

しかし、今回、ロスの島田邸を訪問した際には、奥さんが不在だったので、空港からの途中に酒屋に寄ってシャンペンを購入し、自宅で歓迎の乾杯をしてくれたのだ。もちろんマジシャンらしく、奥さんが帰宅する前に、グラスを洗って棚に戻し、瓶やコルクの栓は、外のごみ箱に捨てに行って証拠隠滅することは忘れなかったが。

「マジック界本流」

日本マジック界の本流は「松旭斎」一派である。明治時代に活躍した松旭斎天一(1853〜1912年)に始まり、その弟子が天勝(1886〜1944年)であり、天洋である。いずれも、一座を率いてアメリカ興行を行った国際派ぞろいだ。

天勝一座の一員として1924年に渡米した石田天海は、一座とは一緒に帰国せずに、妻おきぬと2人でアメリカに残り、技巧派マジシャンとして活躍した。島田は天洋が興した会社のテンヨーに入社し、58年に帰国した天海からはマジックを習っているから、日本マジック界の本流なのである。

「全員名字に「田」」

面白い偶然がある。アメリカで活躍した「石田天海」、テンヨーを創始した松旭斎天洋の本名は「山田松太郎」、そのテンヨーのディーラー(実演販売員)出身のプロマジシャン第1号が「引田天功」、第2号が「島田晴夫」、第3号が「八田加寿雄」、第4号が私の師匠のジミー忍でその本名は「駒田忍」。全員の名字に「田」の字が付いているのだ。

長い期間、海外を拠点に活躍した日本人マジシャンは、石田天海と島田晴夫の2人だけである。

天海は天勝一座のアメリカ興行成功の下地があってからの離脱であったが、島田はまったくの徒手空拳で日本を飛び出し、現在の名声を獲得した。海外での活躍期間は天海が34年で帰国したが、島田は50年を過ぎても現在進行形である。

今回の滞在中にハリウッドのマジック・キャッスルに同伴してくれたが、キャッスルでは役員もキャストも、島田を見掛けると皆があいさつに来る。マジックの殿堂でも、皆からリスペクトされているレジェンドなのである。日本での活動が少ない分、日本ではマジック関係者以外での知名度は低いが、まさに日本が世界に誇る偉大なマジシャンなのである。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】1989年3月13日号ハリウッドのデイリー・バラエティ紙に全面で掲載された表彰式の記事

2019年4月16日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-17-Wednesday 島田晴夫物語

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」 最終回

「かけがえのない2人のパートナー」

島田は人との縁を何より大切にしてきた。半世紀を超えるマジック人生での最たるものは、「ディアナ」と「キーリー」の2人の女性との縁であろう。

「出会いと別れ」

豪州時代の1965年から30年以上もパートナー(島田はディアナのことをアシスタントと思ったことはなく、共演者と認識していた)として連れ添ったディアナが、「そろそろ舞台は引退して子どもや友人に囲まれてアメリカで悠々自適の第2の人生を送りたい」と言う。島田には、まだ現役の舞台人としてさらにアクトを追求していきたいという思いがあり、日本に戻って新たな展開を図れないかという期待もあった。当時は母親も健在で、親孝行をして安心させたいという思いもあった。話し合いの末に2人は別れた。

2017年11月に亡くなったディアナは、離婚後も終生島田のことをリスペクトし続け、慰謝料として島田が渡したラスベガスの邸宅の名義はずっと島田のままにしてあったという。

イギリス生まれのダンサーであるキーリーは島田の娘リサの友人として舞台を手伝うようになり、ディアナの代わりにアシスタントを務めるようになった。ロンドン警察に勤める父と国会図書館で働く母親との間に生まれ、堅気の家庭で育った。長年芸能界に身を置いてきた島田にとって、スレていない彼女の存在は新鮮だった。

完成された島田の舞台を懸命にアシストしているキーリーのけなげさに対する感謝の気持ち、それが、やがて愛情へと変わり1997年2月に東京の鰻屋大江戸で挙式。以来20年余、現在では舞台でも家庭でも、かけがえのない30歳年下の若いパートナーである。

「14年ぶり再会」

2018年10月、島田は長年の友人やファンとの旧交を温めるために来日し、北海道、東京、大阪、福岡、など全国を訪問した。レジェンドの来日は、各地の島田を慕うファンを心から喜ばせた。北海道では札幌に続いて、帯広を訪れ、私とも14年ぶりの再会となった。

マジック・ミュージアムを見学し、「マジシャンに限らず人間には、タイミングというものが重要で、どんなに実力がある人でも、タイミングが合わなければ認められない。今回、14年ぶりにあなたと会って、マジック・ミュージアムを拝見し、まさに今、このタイミングだと確信した」と、私との縁を感じて、引退後に道具などの寄贈を申し出てくれたのだった。

世界中で活躍した島田晴夫の道具類がやがて日本に里帰りし、多くの人に見てもらえる。このインタビュー記事が、その一助になればこんなにうれしいことはない。

(おわり=マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)

【写真のキャプション】マジック・キャッスルパレス劇場にて(2018年2月20日)

2019年4月17日 十勝毎日新聞掲載


■2019-04-18-Thursday 連載完了

3月27日から連載を開始した

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」全14話は昨日17日の掲載をもって完了した。

一般新聞紙上での連載であったから、読者層はマジックに無関係の方が大多数を占めるので、専門用語を一切使用せずに、かつ1回分が1000字以内、全部で14回と言う文字数の制約の中では、どうしても舌足らずになってしまう箇所が出てきてしまった。

表現し切れないもどかしさの中で、時系列を正しく、また、島田晴夫師の人柄が読者に伝わるように、更に、毎回何がしかの面白いエピソードを挟み込み、次回への期待感を高める工夫をしながら書きあげた。

如何だっただろうか?

十勝管外の知人には、PDFに加工してメールで毎回送信をした。手間を考えれば、14回全部が終了してからまとめて1回で送付をしても良さそうなもんであるが、せっかく新聞に連載されるのであるから、毎回リアルタイムで読むという同じ体験をしてもらいたかったのである。

その効果は絶大であったと感じた。

1万4千字を一度で読むのは、結構大変なことであるが、毎回1000字であるならば気楽に読める文字数である。

これが功を奏した。毎回、感想を返信してくださる読者も多かったのである。

ロサンゼルスの島田晴夫師にも毎回メールで送信していた。

途中何度か、楽しい、面白いと言って喜んでくれたが、今朝は完了したことで「今まで、マジシャン相手の本や雑誌で自分のことを紹介されたことがあったが、今回のような一般新聞紙上での14回の連載と云うのは初めてのことでとても新鮮だった。毎回、面白いエピソードが入り、次回への期待も高まるような書き方をしてくれたので一般の方も楽しんでくれたのではないだろうか」と言ってくれたのである。

書いた人間としては、これほど励みになることはない。

読者の皆様の読後の感想を是非とも送って欲しいと思う。

スマホやPCを持っていない人で、ブログを読めない人の為にこれまでの新聞に掲載されたモノを切り抜いてA4判の紙に貼り、それをA3判の紙に両面コピーして、表紙を付け、参考文献なども表示して閉じて冊子を10部作成したところ、皆が欲しい、欲しいと言うので40部追加して50部を作成したのであった。


■2019-04-19-Friday マジックショー

19日に帯広市民文化小ホールで

「第3回2019ワールドマジックin帯広」と云うマジックの催しが開催されたので見て来た。

旧知のマジシャンが主催している催しなのであるが・・・。

私は、「自分が最初から関わっていない企画に、途中から参加を求められても一切関らない」ことにしている。

これはマジックだけに拘らず、あらゆる事に対しての基本姿勢である。

特に、帯広以外の方から持ち込まれる企画には絶対に関らないことにしているのだ。

以前に何度も痛い目にあっているのが主な理由なのであるが・・・。

外部から企画を持ち込む人達は、たとえ、その企画が失敗に終わっても次の日には帯広を去ってしまうのだから、責任は地元に残る人に掛ってくることになる。

事前に十分に企画なり、打ち合わせなりに加われるのならば、その責任の一端を担うことには何の問題もないのだが、そうではない場合がほとんどなのである。

私の名前を、単に利用することことだけの為に、企画を持ち込まれるのは迷惑なケースが多い。いちいちそれを見極める作業も面倒だから、最初から一切関らないと宣言して断ることにしているのだ。

今回も「マジック界発展の為に・・・」と云う理由で協力を求められたのだが・・・。

マジックを見ることは、もちろん大好きだから、ショーを見学には行ったのだが・・・。

帯広文化小ホールは観客席が550名の箱である。スライハンドマジックを演じるには大き過ぎると感じた。

やはり、帯広には、今、私が企画している100名規模の階段状の客席の小劇場が必要だと痛感した次第である。


■2019-04-20-Saturday 大好評

先頃連載が完了した

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」全14話に勝毎「論壇」の2話と参考文献を載せ、表表紙、裏表紙を付けて冊子状にしたものを50部作成したが、希望者が殺到して2日間で全部無くなってしまった。

まだ希望者がいるので、今日、会社が休みであったのだが、出社してもう20冊分を作成してきた。

こんなに評判が良いのなら、島田師に写真を送ってもらって、しっかり編集し直してから印刷屋に発注して冊子にでもしようかと思っているところであるが・・・。

参考文献の件で、ある読者の方から、『藤山新太郎さんの「タネも仕掛けもございません 昭和の奇術師たち (角川選書) 2010年9月18日発行」 が載っていませんでしたが、この本は参考にしなかったのですか?』との質問が来た。

実は、昨日まで、この本を持ってはいたのだが読んではいなかったのであった。

私は「The Magic ザ・マジック」のVol.61.62に載っていた藤山新太郎さんと島田晴夫さんの対談を参考にしたのだが、本の方は読んでいなかったのである。

指摘されてからマジック・ミュージアムの本棚から引っ張り出して読んだのであった。もっとしっかり調べてから書くべきであった。反省している。

一応参考文献と表示はしてあるが、島田師から直接聞いた話でほとんど構成をしてある。ただ、島田師の話は、あちらこちらへと話が飛んでいくので、再構成にあたって時間軸を確認するのに参考にさせてもらったのである。

島田師からは「坂本さんが書いたものの記述が一番正確です」とのお墨付きをいただいている。


■2019-04-21-Sunday 大評判

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」全14話を

1冊の冊子状にまとめたモノを50部作製したのだが、あちらこちらこら欲しい、欲しいの要請でアッと云う間に無くなってしまった。

20部を追加で作成したのだが、これもアッと云う間に希望者に配布したら無くなってしまったので、急遽、追加で更に30部を作製した。

これで合計100部を作製したのだが、作る手間は結構掛かるのであるが、欲しいと云ってくれる人が多いから、作り甲斐がある。

郵送した方々からお礼のメールが続々と入ってくるが、どれも好評で、書いた人間としてはとても嬉しい。

一緒にロサンゼルスの島田晴夫師邸に行ったNHK札幌放送局の古谷敏郎アナウンサーが、別件のニュース取材で帯広入りしたので、仕事終了後に北の屋台で飲んだ。

古谷アナウンサーは、私よりも昔から、島田師の取材をしており、今回の新聞連載にあたっては、いろいろとアドバイスをしてもらった。

毎回、新聞に掲載される度に、メールで送付をしていたのだが、冊子状にしたモノを見てとても喜んでくれた。

島田晴夫さんからも、毎日のようにお電話をいただき、喜んでもらっている。皆が嬉しくなる仕事は楽しい!